安室奈美恵 is my Sunshine

「失って初めて気付く大切さ」みたいな事はよく聞くけれども、本当にその通りである。我々は太陽の存在によってこの地球上に生存しているけれども、愚かな僕がその重要性を真に感受する事が出来るのは、恐らくその存在が消失した時であろう。
 
いま、一つの太陽がその運動を停止しようとしている。天の川銀河アンドロメダ銀河の衝突に先駆けること40億年、2018年9月18日に引退する事を決定した、安室奈美恵という太陽である。
僕は、一人の人間が成し遂げる偉業というものを――それは瞬間的な業績や現象も然ることながら、持続的なスタイルやアティテュード、そして信念としての偉業というものを、安室奈美恵という存在によって真に知覚するのである。
 
確かにアムラー現象はあった。小室サウンドもあった。僕は小室プロデュース時代の楽曲も大好きだけれども、恐らく安室奈美恵という人にとっては、それらの現象も楽曲も、安室奈美恵というアーティストの表現型における通過点に過ぎないのだという事をこそ、この人は証明してきたではないか。
 
我々は簡単に時間が止まるのである。学生の内はまだしも、会社にでも入って社会人として仕事中心の生活をしていればなおさら、身の回りの事柄と、音楽などの人生を豊かに彩る余剰とは、意識によるつなぎ止めがなければ、その乖離は何かと進みがちである。だから懐メロ(!)的な音楽を聴いて「なつかしー!」なんて思ったりして、思い出としての定点的な過去が現在に流入する感慨を味わったりするワケだけれども、しかしながらこの安室奈美恵という人は、常に時計の針を進めてきた人物なのである。
 
ファッションとしてのアムラーは懐かしい。楽曲としての小室サウンドも懐かしい。しかし安室奈美恵というアーティストは、決して「なつかしー!」では終わらない存在であり、定点的な現象を超えて、常に現在的な彼女のスタイルを提示し続けてきた、まさに真のアーティストなのだと思う。安室奈美恵に対する認識が「懐かしい」で止まっている人にこそ、僕はそれ(=懐かしい)以降の彼女の楽曲を聴いてみて欲しいと思う。この人は、本当に駆け抜けているから。音楽で自分を表現している人だから。安室奈美恵の表現においては、時間が常に進んでいるのだから。パブロ・ネルーダも言っているではないか。「われわれの仕事のうちのただ一つの仕事のこうした静止的成功には、それに対する喜びがある。これは健全で生物学的でさえある感情だ。読者のこうした押しつけは詩人をただ一回きりのひとときに固定しようとする。だが、実際には、創作とは不断の車輪のようなもので、たぶん新鮮さと自然さはより少ないにしても、より大きな習練と意識をもって、回転しているのだ」と。
 
僕はライブに行った事はないけれども、安室奈美恵の引退には、もうどうしようもなく言葉にならない思いが胸に渦巻いているんですよ渦巻かせて下さいよ。どこかのラジオで言っていた「(安室奈美恵の引退について)言わんでいい人まで言ってる」とかね、その「言わんでいい人」ってのを連れてきて下さいよと。安室奈美恵の果たした偉業――瞬間的および持続的な偉業――を鑑みればですよ、誰もが安室奈美恵の引退を悲しむ権利があると僕は思いますがね。すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利と、安室奈美恵の引退を悲しむ権利を有すると僕は思いますがね。それだけの事を、この人は瞬間的に成し遂げ、そして持続的に進行させてきたのだから。
 
僕はここ一週間は仕事で中国にいて、雲南省やら北京やらを移動していたのだけれども、出張前にDJ機材を引っ張り出して、徹夜で録音した安室奈美恵MIX(tentative)を毎晩聴いては号泣していた。各都市のホテルで声を上げて泣いていた。OETSUである。アーティストも一人の人間なのであるとすれば、その一人の人間が年月をかけて体現してきた表現(=音楽!)の系譜に、心を激しく揺さぶられずにはいられなかったのである。
 
アーティストがなぜ僕の人生に必要なのかと言えば、彼らは僕のクソみたいな人生をその実利性の余剰として彩りながらも、しかし同時に「人生を生きること」それ自体としての根源的なモチベーションを授けてくれるからである。音楽も映画も本もマンガもアレもコレも、僕が本当に好きなものは「(色々な意味で)生きてて良かった/頑張って生きれそう」と思わせてくれるものである。安室奈美恵というアーティストの軌跡は、まさにそうした感慨を思い起こさせてくれるのである。
 
当時の僕に言いたい。TLCがフジテレビの『HEY!HEY!HEY!』に出演して"No Scrubs"を披露し、Manhattan Recordsのカタログで「口パクで残念でしたねー!」と評されていたのは、確か僕が中学三年生の時だったと思う。あの頃ブラック・ミュージックにハマりだした僕が、"Diggin' On You"などと共に聴きまくっていた名曲"Waterfalls"に、違う感覚で聴きまくっていた安室奈美恵がコラボレーションを果たすなんて、当時の僕には想像すらできなかったはずである。しかし、安室奈美恵からすれば、恐らくその当時から、目指すべきスタイルの一つはその点にあったのであろう。当時我々が当たり前のように聴いていた彼女の音楽は、彼女のスタイルは、実は瞬間的な時代性を超越し、根本的な音楽/スタイルとしての揺るぎないエッセンスを内包していたのだと、今となっては思うのである。身も蓋もない表現をしますけれども、この人はめちゃくちゃカッコイイ人だよ!!!
 
安室奈美恵がその表現によって進めてきた時計の針の動きは、この取るに足らない存在である僕に対しても、このサラリーマンをしていて何かと時間が止まりがちな僕に対しても、「時は進んでいるんだよ」という事を教えてくれるのである。この圧倒的に絶大な知名度におけるレベルで、そうした時間的/表現的な進行性を極めて高いクオリティで知覚させれくれる人など、そうそういないであろうと僕は思う。
 
「何年も君を見てきた。どれほどの奇跡を見てきた」
――それこそ小学生の時から、僕は安室奈美恵を見てきたのである。
 
「ただ過ぎて行くよで きっと身について行くもの」
――安室奈美恵の歌が、身に、心に、どうしようもなく染み付いてきたのである。
 
いまようやく、日本に帰国し、自宅に帰宅し、俺の考えたさいきょうのNamie Amuro Mixが完成したのである。出張先で練り上げたMIXのカンペを凝視しながら。雲南省で思いっ切り食らった風邪を引きずりながら、鼻水をすすりながら時に激しく咳き込みながら。そして途中ミスったつなぎをAudacityで修正しながら。
全21曲、70分くらい。"In The Spotlight(Tokyo)"で幕を開け、新も旧も縦断しながら、『駅馬車』ばりの二段構えなクライマックスには、"YOU ARE THE ONE"と"Sweet 19 Blues"が待ち構えているのである。
 
今僕はその"Sweet 19 Blues"を聴きながら号泣しているので、明日会社を休む理由としては、社会人として極めて申し分ないであろう。アイキャッチ画像のピンバッジはヤフオクで落としましたし、咳き込みながらもMIX完成の祝杯を過剰気味に上げてしまいましたし。
とにかく、僕はまだまだ安室奈美恵の事を考え続けるし、これからも彼女の楽曲を聴き続けるんだぜanyway! YES!! Go Paradise Train!! 幾千夏が来ても!!!!!

スペイン版アニソン歌詞・マジンガーZ ~ラテンアメリカは水木一郎の夢を見るか?~

私、1984年に生を受けておきながら、最近ようやく知り得た事実がございまして、それは「ラテンアメリカ版におけるマジンガーZの主題歌には歌詞が無い」という事なのです。ラテンアメリカ版のOPに流れる音楽は、歌ではなくインストなのです。海外版歌詞の(逆)翻訳を趣味とするこのド腐れ機械獣からすれば、「衝撃!Z編」とはまさにこの事なのでありまして、無い知恵を絞って色々考えてはみたものの、やはり存在しない歌詞を翻訳する手段は一つも思い浮かばなかったのであります。
 
しかしながら、スペイン版においてはしっかりとスペイン語の歌詞が歌われておりますので、今回はラテンアメリカ版ではなくスペイン版を翻訳します。そしてなぜラテンアメリカ版には歌詞が無いのかについても、自分の想像の及ぶ範囲で考えてみたいと思います。
 
 
Mazinger Z
 
スペイン版
 
【歌詞原文】
Mazinger…
Planeador abajo…
 
La maldad y el terror,
Koji puede dominar.
Y con él, su robot,
¡Mazinger!
 
Mazinger es fuerte y muy bravo
es una furia!
No pueden con él,
preparado a combatir estááá!
 
Es inmortal, el robot,
siempre lucha por la paz!
Su amistad y su amor,
Koji puede controlarrr!
 
El poder, la verdad,
con Mazinger, sííííí!
 
 
【拙訳】
(兜甲児によるセリフ)
降下グライダー(パイルダー・オン
 
悪や恐怖は
甲児がこらしめるぜ
そして彼のロボット
 
マジンガーは強くて勇敢
それは怒りなのだ!
止められないのさ
戦う準備はできてるぜ!
 
不死身のロボット
いつだって平和のために戦うぜ!
その友情も愛も
甲児がコントロールできるのだ!
 
力、真実
マジンガーと一緒に、そうだ!!!
 
 
【所感】
開幕と同時に、マジンガーに対してパイルダー・オンが決まるワケだけれど、そのアクションにしっかりとセリフを加えてくるという、この真っ直ぐな姿勢が大変清々しくて素晴らしい。「パイルダー・オン」は劇中においても”Planeador abajo(降下グライダー)”と翻訳されており、オリジナルのパイルダー・オンが持つ運動的特徴を鑑みれば、これはまさにその通りとしか言いようがない表現である。
”Planeador abajo”の掛け声と共に鳴り響く勇壮で絶対的なイントロ、つまり神イントロ。そして構図はマジンガーZの頭部から斜めアングルのバストショットへと移行し、小節の頭の音と共に打ち出される"MAZINGER Z"のタイトル。完璧である。そう、最高なのである。このイントロ部分だけで、スペインにおけるマジンガーZの成功は約束されていたのだと思えてしまうのである。
 
ちなみに日本版は「マジンガーZ」のタイトルが四小節目の途中から入っていて、音楽的なシンクロはあまり考慮されていないように思えるが、ここらへんは映像と音楽それぞれの製作事情とかまあ色々あったのかもしれない。参考までに日本版のOPも貼っておきますね。
 
日本版

www.youtube.com

 
 
それでは歌詞を見比べていきます。
 
空にそびえる
くろがねの城
(日本版)
 
悪や恐怖は
甲児がこらしめるぜ
そして彼のロボット
(スペイン版) 
日本版は「スーパーロボットであるマジンガーZ」という本質を、「空にそびえるくろがねの城」という表現によって言い表しているワケだけれど、その素晴らしい比喩表現の方を倒置法的に先に表出させる事によって、「スーパーロボット」および「マジンガーZ」という虚構の固有名詞が強烈なイメージを獲得して立ち現れている。
それにしても「空にそびえるくろがねの城」という比喩は途轍もなく秀逸で、この言葉によって「スーパーロボットマジンガーZ」に只ならぬ魅力が注ぎ込まれているのである。アニソンにおける歌い出しのフレーズとして、信じられない程に完成されていると思う。もうハッキリ言うけれども、あしゅら男爵もDr.ヘルも、この歌い出しの時点で既に詰んでいるのである。
 
一方でスペイン版は、マジンガーZという作品の持つ勧善懲悪的な性質を早速打ち出すような歌い出しである。その中で僕が特に注目したいのは、日本版の歌詞では言及されることのないパイロットの存在、つまり「兜甲児」についての描写によって歌詞が開始されている点である。「マジンガーZさえあれば、人は神にも悪魔にもなれる」とは、義務教育の過程で誰もが学ぶ真理であるが、要するにマジンガーをどう使うかはパイロット次第、力をどう使うかは人間次第だという事である。「悪や恐怖をこらしめる」という行為は、何よりもまず兜甲児という主体の意志によって発生する。スペイン版はそうした「行為主体の本質と、その為の力としてのマジンガーZという関係性」を提示しているのではないか。
  
無敵の力は
ぼくらのために
正義の心を
(日本版)
 
マジンガーは強くて勇敢
それは怒りなのだ!
止められないのさ
戦う準備はできてるぜ!
(スペイン版) 
日本版の歌詞においては、マジンガーZという存在を「空にそびえるくろがねの城」と言い表していたワケなんだけれど、ここでスペイン版もマジンガーZの性質に言及しているのであって、それ(=マジンガー)は「怒り」なのだという。「空にそびえるくろがねの城」が事物的な崇高性の表象であるとすれば、「怒り」とはまさに感情の、さらに言えば激情の表象である。つまりマジンガーZという存在は、人の激情が具現化したものであり、やはり「行為主体とその力」という関係性に立脚した描写が連続しているのだと言えよう。
  
とばせ鉄拳!
今だ だすんだ
ブレストファイアー
(日本版)
 
不死身のロボット
いつだって平和のために戦うぜ!
その友情も愛も
甲児がコントロールできるのだ!
(スペイン版) 
日本版はマジンガーZにおける虚構性の象徴、つまり様々な固有名詞の表出と、それらに掛かる勇ましい言い回しによって、視聴者をフィクションの世界へと誘う歌詞構造が継続している。このパラグラフにおいて、そうした視座は「マジンガーZに対する応援」として遂にその本質を露呈し、「応援による虚構へのアクセス」という伝統的なアニソンの一つの類型に帰結しているワケである。
 
スペイン版については、「行為主体とその力」という関係性の極めて露骨な表明が為されており、「その(=マジンガーの)友情も愛も甲児がコントロールできるのだ」という。マジンガーZという力(=怒り)は、甲児によってそのすべてをコントロールされる。つまり正義を為すための力については、行為主体である甲児にその発動および運用の全権が託されているという図式を、ここでより一層強調しているのだと思える。
  
マジンゴー!マジンゴー!
(日本版)
 
力、真実
マジンガーと一緒に、そうだ!!!
(スペイン版) 
「力」そして「真実」。それらはマジンガーと結合する事で強烈に肯定されている。「力」という言葉はマジンガーZという存在の表象として現れているのだろうと思うが、「真実」とはなんだろうか。単純にポジティブなイメージを持つ言葉を重ねただけだろうか。これについては、実はちょっとばかり思うところがあって、後述するラテンアメリカ版についての考察の中で言及したいと思います。
 
 
まとめると、日本版は「マジンガーZ」に対する描写が一貫して展開されながら、その中で種々の固有名詞が次第に「応援」の言葉と結び付く事で、主題歌は「応援による虚構へのアクセス」を促進する役割を担うまでに至っている。
 
一方のスペイン版では、マジンガーは「怒り」という感情(激情)の表象として立ち表れていて、そこには「正義の存在」としてのマジンガーではなく、「正義を行う主体の力(=怒り)」としてのマジンガーが歌われているのだと思える。つまり正義はパイロット(=行為主体)の兜甲児にある。これはまさに「マジンガーZさえあれば、人は神にも悪魔にもなれる」というヤツなのであって、真にフォーカスされるのは個人の人間なのである。スペイン版は、そうした視座が存分に打ち出された歌詞なのだと言えよう。
 
 
なぜラテンアメリカは歌詞が無いのか
 
まあ、まずはこちらをご覧ください。
 
 
お分かり頂けただろうか?(ほん呪風)
本当に歌詞が無いワケなんだけど、じゃあなぜ無いのかと言うと、残念ながら、結論を言えば分からないスペイン語で色々と思い付く範囲でググってみたりしたんだけど、それでも「やっぱり歌詞は無い」という事実が改めて突き付けられるのみで、「なぜ無いのか」について言及する記事やコメントを見つけ出す事は出来なかったのである。
 
一体なぜ歌詞が無いのだろうか。確かにLAMP EYEの『証言』CD版では、YOU THE ROCKによるマジンガーZの歌詞が無くなっていたという現象が起きたワケだけれど、しかしながらこの件に関して言えば、それとは異なる原因があるのではないかと思われる。
 
分からなければ分からない程に答えを追い求めてしまうのであって、ここ最近は四六時中その理由を考えており、それはもうハッキリと仕事に支障をきたしている。とは言え、僕も一応は社会人なのであって、そろそろ一旦ケジメをつけて真面目に働かなければならないという気がしてきたのである。従って、取り敢えず僕の考えてみた理由を一度まとめる事によって、それが自分の中で一つの区切りとなるように願いつつ、以下にその内容を書いてみたいと思います。
 
各国の放送開始時期などの情報については、いくつかのスペイン語サイトを参照しています。つまり以下の内容は「ネットの記事に基づく推測」という部分がありますので、それなりに寛容の心をパイルダー・オンして頂ければとは存じますが、もし正確な情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ご教示頂けると大変有り難いです。
 
 
まず、スペイン語圏におけるこの作品の放送開始時期を簡単にまとめてみたい。
スペインでマジンガーZが放送されたのは1978年3月4日という事である。スペイン語吹き替えはバルセロナのSonygraf社によって行われており、この吹き替えは現在では”versión de Sonygraf(Sonygraf版)”として認知されている。
一方で、スペインでの放送開始後、ラテンアメリカにおいて最初にマジンガーZが放送された国はチリである。1980年(または1979年?)にチリ、そして同年にパラグアイベネズエラと続き、1981年にアルゼンチン、1983年にペルー、そして1986年にメキシコへと広がっている。また年代は分からないが、コロンビア、エクアドル、および中米のコスタリカホンジュラスなどでもマジンガーZは放送されている。これらラテンアメリカにおけるスペイン語吹き替えはCadicy International社によるもので、こちらは”versión de Cadicy International(Cadicy版)”として知られている。
ラテンアメリカにおいては、後にESM International社による吹き替え”versión de ESM International(ESM版)”が登場し、再放送などにおいてはCadicy版に代わってESM版が放送されていたりするようだが、明確な時期は不明である。
 
上記の内容はこれらのサイトの情報を簡易的にまとめたものです。
 
 
そしてこちらのサイトによると、そもそも東映アニメーションによる「インターナショナル版」のOP、EDには元々歌詞が無く、それぞれの国がそれぞれの言葉を入れられるようになっていたらしい。つまり歌詞を付ける事も付けない事も可能だったようであるが、結果として(スペイン語圏においては)スペインだけが歌詞を入れたという事である。 

Versiones internacionales de Mazinger Z

 
 
要するにラテンアメリカ版(厳密にはCadicy版)は敢えて歌詞を付けなかったのであって、ここでどうしても気になってしまうのは、南米における初のマジンガーZの放送国がチリだったという事実である。1980年のチリは、ピノチェトによる独裁政権の真っ只中にあったワケで、この独裁政権という体制は往々にしてアレをやるでしょう。アレですよ。そう、検閲というヤツを。
つまりそうした独裁政権による検閲を回避するための手段として、敢えて歌詞を付けなかった可能性があったりはしないだろうかと。同1980年にマジンガーZを放送したパラグアイも、当時はストロエスネルによる独裁政権下にあったワケだし、1981年のアルゼンチンにも軍事独裁体制が敷かれていた。
 
たかがアニソンの歌詞で、それもパイルダー・オンとかロケットパンチとかブレストファイヤーとか叫んでいるマジンガーZの歌詞で、一体どこの検閲を意識するのだろうかと思えるかもしれない。またこのような勧善懲悪の作品は、使い方次第では独裁政権によるプロパガンダとして有効な一面もありそうではある。
しかし、ここでスペイン版(Sonygraf版)を思い出して欲しい。明確なる悪への対峙は、甲児という個人の主体がその行為の根源となるのであって、マジンガーZはあくまでそのための力であった。「力」も「怒り」も個人に対して与えられ、その発動も運用もあくまで行為主体に託されていたワケである。つまりスペイン版の歌詞においては、個人という行為主体がクローズアップされていたのであって、視聴者は各々の願望を甲児に対して投影するのではないだろうか。そして、マジンガーZと結託する事で強烈に肯定される「真実」。独裁政権下においては、「力」を持つのは視聴者でなく独裁者であるし、またその体制によって行われる種々の表現規制は、幾度となく「真実」を闇に葬ってきたのであろう。つまりスペイン版の歌詞には、独裁政権の終焉による時代的雰囲気の変容を、どことなく匂わせるようなニュアンスを感じてしまうのである。
 
こうしたイメージが、1976年以降スアレス政権の下で民主化を果たしたスペインにおいて歌われていたという事に、何らかの意味を感じたりはしないだろうか。つまり「民主化を果たしたスペイン」で歌われたこの主題歌は、「勧善懲悪における善悪の方向付けとしての前例」といった文脈で捉えられたりはしなかったのだろうか。
 
こんな感じの時代背景があって、その中で南米諸国の軍事独裁政権による検閲を意識した結果として、歌詞を付けないという選択が為された、というような事を一つの可能性として考えてみたのです。
それならば本編自体が放送できない可能性もありそうではあるが、(特にこの当時の)アニメ主題歌というのは、往々にして作品のエッセンスを歌詞に凝縮するものであるのだから、そうした言葉と音楽が結託した「歌」という表現の持つ影響力は、決して馬鹿にできるものではないと思う。従って止むを得ず歌詞を放棄し、検閲を通りやすくしたのだというような可能性を考えてみたのである。繰り返しますがあくまで可能性として。
 
 
とか何とか書いてみたんだけれども、実はただ単に予算的な都合であったのだとか、あるいは単純にインストの方がカッケーと判断されたのであったのだとか、まあこの他にも色々な可能性が考えられるワケである。ウィトゲンシュタイン曰く「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」けれども、この件はウィトゲンシュタイン的な「語りえぬ」性質のものでは全然ないと思われますので、また何か分かれば積極的に加筆修正していきたいと思います。
ともかく、これで個人的にはようやくひと段落だゼェーット!!!
 

ラ米アニソン歌詞・新世紀エヴァンゲリオン

僕もエヴァの呪縛に囚われた者の一人として、意気揚々と日本語訳に取り組んでみたワケなんだけれども、表面的な字面だけを見比べてみたら、ラテンアメリカ版の歌詞はオリジナルのそれとほとんど同じなのでした。要するにATフィールドが物凄く中和されていて、コイツはゼーレが黙っちゃいませんよと思ったのであります。
しかしながら、単語として表層的に類似してたって、そこには1万2千層の言語構造があるんだからっ!というヤツである。結果としてやはり差異は認識できるのであって、こんな時は「そうか、そういう事かリリン」と呟いて笑えばいいと思ったのである。というワケで甘き差異よ、来たれ。
 
 
ラテンアメリカでの放送国: メキシコ、ペルー、チリ、コロンビア
 
 
【歌詞原文】
Así como un despiadado ángel
joven Mesías llega a ser leyenda...
 
Ahora el viento azul
golpea la puerta de tu corazón
solamente estás contemplándome así
con esa sonrisa cándida.
 
Algo enternecedor
es lo que tu buscas con obcecación
y no puedes ver tu destino así
con ojos tan inocentes.
 
Yo creo que algún día podrás
darte cuenta que en tu espalda
llevas las alas que rumbo al lejano
futuro te llevarán.
 
La premisa del despiadado ángel
a través del portal de tu alma volará
si por sólo un instante de tibio dolor
al templo de tus recuerdos traicionaras
Abrazando este cielo resplandecerás
joven Mesías llega a ser leyenda.
 
 
【拙訳】
残酷な天使のように
若き救世主よ伝説になれ
 
今 青い風が
君の心の扉を叩く
君はただ私を見つめているだけ
その無邪気な笑顔で
 
心を打つもの
それは君が執着して求めるもの
そしてそんなに無垢な瞳でも
君は運命を見ることはできない
 
私は信じる いつの日か
君は気付くだろう その背中には
遥か未来を目指した羽を
身に着けていることを
 
君の心の入り口を通って飛んでいくだろう
たとえ生ぬるい痛みの一瞬だとしても
記憶の殿堂を裏切ったなら
この空を抱いて輝くだろう
若き救世主よ伝説になれ
 
 
【所感】
まず言及しておきたいのは、開始二行目の“joven Mesías llega a ser leyenda”を「若き救世主よ伝説になれ」と訳しましたけど、一方でこれは「若き救世主は伝説になる」とも訳せるワケです。でもそうではなくて、これは”joven Mesías(=若き救世主)”に対する命令文だろうと、「若き救世主よ、(君は)伝説になれ」という事だろうと僕は思うのです。
人の名前の後に命令形に活用された動詞を配置する際、厳密にはそれらの間をコンマで区切るべきであろうけど、世の中にはそうなっていない事も多々あるワケで。たとえばキャプテン・アメリカがハルクに対して「ハルク、(君は)暴れろ」と言う時、英語では”Hulk (,) smash!”と言っているように、それをスペイン語では”¡Hulk (,) aplasta!”というワケであって、この歌詞においても同じように”joven Mesías (,) llega (a ser leyenda)”と、「若き救世主よ、(君は)伝説になれ」と言っているのであろう。だってオリジナルがそーなんだから。
 
その上で歌詞を見ていきたいと思いますが、 
残酷な天使のように
少年よ神話になれ
(日本版)
 
残酷な天使のように
若き救世主よ伝説になれ
恐らくはこの箇所が、厳密に言えばこの二行目が、両歌詞における最初にして最大の差異である。もう第一話からカヲル君が出てきちゃったような感じである。
まずはその差異を対比させてみたいと思います。
 
A「少年/若き救世主」(よ) B「神話/伝説」(になれ)
 
そして、対比させたそれぞれの言葉の性質を簡単に箇条書きにしていきたいと思います。
 
A「少年/若き救世主」
・少年…年の若い男子。普遍的な存在。たくさんいる。フツー。
・若き救世主(メシア)…年の若い人類の救い主。究極的に選ばれた存在。キリスト教の文脈においては一人しかいないし、一般的な広義の意味でもほとんどいない。超特別。本人曰く又吉イエスはメシアらしいが、その真偽は分かりかねるけれども取り敢えずあの人は若くはないのでこれには該当しない。
 
B「神話/伝説」
・神話…神様や聖なる事柄についての話。超大昔の出来事であり場所の実在性は曖昧。
・伝説…事実に基づいた前提による言い伝え。時と場所はそれなりに明確。
 
これを踏まえた上で元々の文章を再構築してみます。
 
●「フツーの年の若い男子」が「時間と場所の曖昧な聖なる話」になりなさい
(日本語版)
  ●「超特別な選ばれた年の若い人類の救い主」が「時間と場所の明確な言い伝え」になりなさい
 
そしたら色々と考えていきます。
 
ラテンアメリカ版における「救世主(=超特別な選ばれた年の若い人類の救い主)」が碇シンジ君を指し示しているだろう事は想像に難くない。一方で「少年(=フツーの年の若い男子)」は、碇シンジ君をその対象として「含んでいる」という範囲性を持つ名詞である。シンジ君は確かに選ばれた存在だけれども、しかし同時にフツーの14歳の少年としての性質を帯びた主人公なのであって、だからこそ彼は劇中において色々と葛藤するワケである。
このニュアンスを加味しつつ、さらには時と場所の「曖昧/明確」という性質を言い換えながらもう一度文章を再構築してみると、
 
 ●「非限定的な主体」が「時と場所の非特定的な聖なる話」になりなさい
(日本語版)
 ● 「限定的な主体」が「時と場所の特定的な言い伝え」になりなさい
 
というようなそれぞれの構造が見えてくるのであって、つまり日本版は主体もその変容すべき対象も「非限定的(=非特定的)」な性質を有している。一方でラテンアメリカ版は、主体もその変容する対象も「限定的(=特定的)」な性質を帯びているワケで、両者に共通しているのは、それが「行為」として他者によって命令されているという点である。
 
今度はそれぞれの性質をそれなりに嚙み砕いて表現してみると、
 
 ●「何者でもない存在」が「よく分からないけど手の届かない壮大で神聖なもの」に「行為」としてなりなさい
(日本語版)
 
何だか滅茶苦茶な事を言っているように思える。「何者でもない存在」と「よく分からないけど手の届かない壮大で神聖なもの」なんて到底連関し得ない性質同士を、「命令」が強制的に結び付けているワケである。
しかしながら、「少年」にとっては、命令でもされなければ「神話」なんて(逆に)眼中にも無かったであろう。観点を変えれば、ここで「命令」はある種の「後ろ盾」として機能していて、「よく分からないもの」を目指す主体の行為を正当化しているようにも思える。つまりこの命令によって「なんかよくわかんねーけど取り敢えず歩き出す」という行為が可能となるのである。そこにはエヴァの世界において大人達に命令されながら、「なんかよくわかんねーもの」の氾濫に対しても頑張って立ち向かったり逃げ回ったりするシンジ君が見えてくるようでもあり、そしてまた「なんかよくわかんねーもの」を突き付けられながらも一話一話を行為として観続ける、何者でもない我々の姿もオーバーラップしてくるのではないか。
人類補完計画」だの「裏死海文書」だの、意味を表す言葉はどんどん出てくるんだけど、一方でその意味内容はことごとく宙吊りにされていく。宮台真司の言う「シニフィアンの過剰」を目の当たりにする我々の、それでもその意味内容を手中に収めようとする気持ちが作品を観るモチベーションに加担するような、「何者でもない存在」と「よくわかんねーもの」を「行為」が結び付けるという関係性を、この歌詞は彷彿とさせるのである。
 
 ● 「選ばれし存在」が「特定性を有した明確に言い伝えられるもの」に「行為」として「なりなさい」
 
一方でこちらの行為主体は明確に碇シンジ君を指すのであって、我々は含まれない。我々は「選ばれた存在」などでは、とりわけ「人類を救済するという規模において『選ばれた存在』」などでは決してない。自身をその意味で「選ばれた存在」であると認識した結果の一つが又吉イエス大先生なのだとすれば、そうした否定的な思いは確信へと変わるであろう。
碇シンジ君という特定の存在が、特定の虚構世界において、特定の言い伝えになる。すべての事象はテレビの中に、すなわち作品世界の中における出来事として回収されていく。
すると、
 
  ●「選ばれし存在」が「特定性を有した明確に言い伝えられるもの」に「行為」として「なりなさい」
 
 という命令文は、作品世界を外側から眺める我々に取ってみれば、
 
  ●「選ばれし存在」が「特定性を有した明確に言い伝えられるもの」に「現象」として「なる」
 
という単純な肯定文とほとんど同義であろう。他者の「行為」は、私にとっては「現象」である。「若き救世主よ伝説になれ」という限定性・特定性を有した単語の連なりによって構成された命令は、「若き救世主が伝説になる」という限定的で特定的な現象を肯定する。「飛ばせ鉄拳ロケットパンチ」でマジンガーZロケットパンチを飛ばすように、「怒れ鋼のサイボーグ」で獅子王凱が怒りを炸裂させるように、それは虚構世界に向けた他者としての願いに似た命令、すなわち古き良きアニソンにおける「応援」の系譜を踏襲するものであり、キャラクターの「行為=現象」の肯定によって視聴者は虚構世界に参加するのである。つまりアニソンの伝統的な視座によってエヴァという作品を捉えた翻訳だと言えるのではないだろうか。 
 
蒼い風がいま
胸のドアを叩いても
私だけをただ見つめて
微笑んでるあなた
(日本版)
 
今 青い風が
君の心の扉を叩く
君はただ私を見つめているだけ
その無邪気な笑顔で
もうほとんどオリジナルに忠実な翻訳っぷりで、差異があるのは「あなた」および「」が指示する主体だけであろう。
日本版において「あなた」は「碇シンジ君」であると同時に、何者でもない存在としての非限定的な主体である「我々」を含む事も可能であろう。一方で「」には「『あなた』以外の他者」が代入可能であり、ここでは逆に「あなた」に含まれない部分の「我々」もその対象である。これは「少年」に含まれない青年以上の男性とか女性視聴者全般とかそういう意味ではなくて、「碇シンジ君」の持つ「特別でない普遍的な性質」に自分自身を重ね合わせるのか合わせないのかという点において、「我々」は「あなた碇シンジ君」に含まれるのか含まれないのかという差異が発生するのだと思う。
それに対してラテンアメリカ版においては、「」とは「若き救世主」である「碇シンジ君」単体の事であろうし、「」は彼を応援する「我々」であろう。その意味で、「我々」の役割は限りなくミサトさんに近い。 
 
そっとふれるもの
もとめることに夢中で
運命さえ まだ知らない
いたいけな瞳
(日本版)
 
心を打つもの
それは君が執着して求めるもの
そしてそんなに無垢な瞳でも
君は運命を見ることはできない
オリジナルのオープニングでは、「いたいけな瞳」の部分において綾波レイの瞳がクローズアップで映し出される演出も影響してか、この「瞳」の持ち主は必ずしも碇シンジ君には限らない気がしてしまう。それはチルドレンという「特別でない普遍的な性質」に対するクローズアップなのであろうかと思うと、このパラグラフにおける主語の不在については腑に落ちる部分が大きい。
一方のラテンアメリカ版はスペイン語の構造的に主語が引き続き明示されていて、「君=碇シンジ君」という固定化した関係性に立脚した描写が展開されていると思える。映像においてはオリジナルと同様、”con ojos tan inocentes{=そんなに無垢な瞳で(も)}”の箇所が綾波レイの瞳とオーバーラップしているワケだけれど、それは虚構世界における選ばれた存在としての「主体の限定性」が、碇シンジ君から綾波レイに一瞬スライドしているようなものではなかろうか。つまりこの歌詞の文脈においては、我々と彼ら(虚構のキャラクター達)はどこまでも他者なのである。ATフィールド絶賛展開中である。 
 
だけどいつか気付くでしょう
その背中には
遥か未来 めざすための
羽根があること
(日本版)
 
私は信じる いつの日か
君は気付くだろう その背中には
遥か未来を目指した羽を
身に着けていることを
もうほとんど差異がない。ラテンアメリカ版において「君」や「私」というそれぞれの行為主体の明示が繰り広げられているのも、これはスペイン語がそういう言語なのだからそういう事なのである。主語の省略された日本版の歌詞においても、このラテンアメリカ版における主語の振り分けがそのまま当て嵌まるであろう。 
 
窓辺からやがて飛び立つ
(日本版)
 
君の心の入り口を通って飛んでいくだろう
ラテンアメリカ版の歌詞における”La premisa”を「テーゼ」と訳してみましたが、”premisa”はどちらかというと「前提」という意味の単語で、本来は「テーゼ」ならば”tesis”という単語がある。しかしながら多くの場合において、最初に提示される命題(=テーゼ)を「前提」というのであるから、「テーゼにおける前提としての性質を有したテーゼ」として”premisa”を「テーゼ」と置き換えてみたのです。ややこしい事を申し上げましたけれども、簡単に言えば「なぜならオリジナルが『テーゼ』なんだからな!」という事です。従って厳密には「残酷な天使の(前提としての)テーゼ」という狭義性がラテンアメリカ版にはありますよ、という点にだけ一応触れておきました。
 
オリジナルにおける「窓辺」が「(君の)心の入り口」に対応しているワケだけど、一方で「『~から』飛び立つ」に対する「『~を通って』飛んでいく」という差異も見られる。この歌詞においては「窓辺=心の入り口」という特定の場所が、いわば外界とのボーダーラインとして機能していると思うのだけれど、外界へ飛び立つに当たってはその場所が「起点(=~から)」となり、そして事物の運動性としてはその場所を「経由(=~を通る)」しているだろう。
つまり日本版は「起点」としての場所性、ラテンアメリカ版は「経由点」としての場所性にフォーカスしていて、「飛ぶ」という事物の運動の連続性をどの点において捉えるかという差異が表れているのであるけれども、ところでコレ何が飛んでいくのだろうか?
ラテンアメリカ版においてその点は明白で、それは「残酷な天使のテーゼ」である。“volará(=飛んでいくだろう)”という動詞の主語は、その直前の名詞”La premisa(=前提としてのテーゼ)”に他ならないのであって、要するにテーゼが飛んでいくワケである。
「『テーゼ(=前提)』が心の入り口を通って外界へ飛んでいく」という描写は、「テーゼ(=前提)」が世界に対して発信される様子を言い表していると思えるのであって、提示されたテーゼは世界(=他者)によって吟味され、時に反証され、そしてそのぶつかり合いの中で何らかの形を形成していく。誰だって傷付きたくはないけれど、往々にしてそれが「他者と関わる」という事であり、そして「世界に生きる」という事なのである(実際にシンジ君が「世界を生きる事ができた」のかどうかは、また別の話)。だからこそこれは「残酷な天使のテーゼ(=前提)」なのかもしれないなと、この年齢になって拙者はようやく気付いたのでござるよ薫殿。個人的には、この解釈はそのまま日本版にもフィードバックしたいと思います。 
 
ほとばしる熱いパトスで
思い出を裏切るなら
(日本版)
 
たとえ生ぬるい痛みの一瞬だとしても
記憶の殿堂を裏切ったなら
「パトス」とは「快楽や苦痛を伴う一時的な感情状態」などを表すギリシャ語である。日本版におけるその「パトス」に対して、ラテンアメリカ版は「痛みの一瞬」という言葉を対応させているワケであって、要するに「パトス」の意味をより厳密に抽出した結果だと捉えられるであろう。
その「パトス=痛みの一瞬」を形容する表現に差異が見られるワケで、それは「熱い」と「生ぬるい(tibio)」という体感的な温度差として表出している。ラテンアメリカ版におけるこの差異は、「『ほとばしる熱いパトス』ほどに熱くなくても」というような、とにかく「思い出(=記憶の殿堂)を裏切ったなら」という「行為としての条件」を強調する事を意図しているのではないだろうか。
また一方で、「思い出」が「(君の)記憶の殿堂(templo de tus recuerdos)」というように格調を帯びた表現に変化している点については、エヴァンゲリオンという作品が持つ若干スノッブな雰囲気に基づいた「サービスサービスぅ!」なんじゃないですかね。すなわち「君が何を言ってるのか分からないよカヲル君」イズムのちょっとした発露なのではないかと僕は思います。 
 
この宇宙(そら)を抱いて輝く
少年よ神話になれ
(日本版)
 
この空を抱いて輝くだろう
若き救世主よ伝説になれ
「輝く」という行為が前部の「裏切るなら」という条件を受けて成立しているのであれば、ラテンアメリカ版における動詞は“resplandecerás”でなく”resplandecerías”になるべきだろうけど、ここは文章が切れてしまっているので、そうした文法的な正当性を根拠として考えるべきなのかどうかは分かりません。ただ前後の繋がりからすれば「思い出(=記憶の殿堂)を裏切った」結果として「この空を抱いて輝くだろう」事はなかなか疑いようがないので、そのように捉えればやはりこれは虚構のキャラクターに対する応援の一環であろう。
冒頭において提示された「若き救世主よ伝説になれ」という命令(=現象の肯定)に対して、「こうすれば、こうなるよ」という種々の肉付けを踏まえて、再び「(だから改めて)若き救世主よ伝説になれ」という同命令(=同現象の肯定)に回帰しているワケである。つまり「応援による虚構へのアクセス」をより強調する構造を持った歌詞であると言えるかと。
一方で日本版においては、ラテンアメリカ版と同じように碇シンジ君(=少年)を応援しつつも、同時に我々(=非限定的な何者でもない主体)自身がエヴァを観るという行為が、命令によって後押しされているようにも思えるワケである。その影響という事では無いだろうけども、結果として多くの何者でもない者達がエヴァの呪縛に囚われてしまったという事実については、今さら言及するまでもないであろう。
 
 
まとめると、ラテンアメリカ版は特定の虚構世界における固有名詞を用いることなく、元々の歌詞を特定の意味性を持つ言葉に置き換える事によって、古き良きアニソンの伝統的な視座、すなわち「虚構存在への応援」という性質の主題歌に再構築している。
一方で日本版については、その言葉の意味範囲における特定性・限定性の無さゆえに、シンクロしてしまった各人を「歌われる存在」として巻き込んでいく。そして、各種の在らざる意味内容を一生懸命考察する我々の姿が、そこにオーバーラップするのである。
 
 
今回何が辛かったって、エヴァの事を思い出すと色々な(恥ずかしい)思い出が付随的に蘇ってきてしまうのが辛かったのです。僕というかつての少年は神話にはなれずにサラリーマンになってしまったし、背中に羽根があるどころか首に頚椎症を発症しているような有様なんだけれども、それでもとにかく僕はまだ生きているのであって、だったらしっかり生きて、それから死ぬのである。まあなるべく死にたくはないのだけれど。
最後になりましたが、お読み頂いた全てのアミーゴスに、グラシアス。
 

ラ米アニソン歌詞・GS美神

取り敢えず文末にbig money coming, yeah!!を付ければ大抵の問題は乗り切れる、そんな風に考えていた時期が僕にもありました。
それくらいこの主題歌『GHOST SWEEPER』を好きだったワケなんだけど、ラテンアメリカ版のそれもなかなかどうして極楽へ到達しているなあと。コーラスが思いっ切り日本語のまま残っちゃってる部分も含めて逆にイイ、ある意味でのラテンのノリを体感できる翻訳大作戦なのであります。
 
 
Cazafantasmas Mikami
ラテンアメリカでの放送国: メキシコ、アルゼンチン、ベネズエラ、チリ
 
【歌詞原文】
Su largo cabello el viento mece 
sobre un bello cuerpo seductor. 
Sus zapatos son con muy alto tacón, 
siempre en busca de dinero y sin temor. 

A los pies de enormes rascacielos, 
testigos que inmutables pueden ver 
que sin excepción, si llega una aparición 
a su mundo logrará hacerlo volver. 

Siempre inmersa en su labor, 
que nunca piensa en el amor. 
Pero ella cree que así es mejor. 

Mikami, Mikami, la cazafantasmas, 
osada, admirada. 

Mikami, Mikami, la cazafantasmas, 
hermosa mujer es Mikami
 
 
【拙訳】
風が長い髪を揺らす
魅惑的な身体に沿って
彼女の靴は とても踵の高いハイヒール
恐れることなく いつもお金を追い求める
 
超高層ビルの立ち並ぶ足下
変わらないものが確かにあるという証拠
もし幽霊がやって来ても
元の世界に送り返してしまうだろう
 
いつも仕事に溺れて
愛について考える事はない
でも彼女はその方がいいと信じている
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
大胆で、憧れの人
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
美しい女、それは美神(ミカミ)
 
 
【所感】
まずは冒頭部分から。
長い髪なびかせて
悩まし気なボディ
この都会(まち)を ハイヒールで
跳び回れば Big money coming, yeah!
(日本版)
 
風が長い髪を揺らす
魅惑的な身体に沿って
彼女の靴は とても踵の高いハイヒール
恐れることなく いつもお金を追い求める
長い髪、セクシーな身体、ハイヒール、お金という美神のキャラクターに関連する諸要素の表出が忠実にトレースされている。
ここで僕が好きなのは、単に表現の問題ではあるのだけれども、ラテンアメリカ版の「魅惑的な身体に沿って長い髪が揺れる」という描写である。風になびく長い髪が身体のラインをなぞる様子は、美しい筆によって艶やかな造形が描かれる光景を彷彿とさせる。「髪」と「身体」という造形的イメージを、「風」という目に見えない運動性を媒介として結び付ける事で引き立つ美神の美。そして造形に対して「沿う(sobre)」という触覚的な感覚が、その輪郭を艶めかしく際立たせ、事物は美という性質の中に溶け込んでいくのである。つまり大変美しい。本当にありがとうございます。
 
摩天楼の足下
時代錯誤の罠
血迷った危ない奴らなら
極楽へいかせちゃうわ
(日本版)
 
超高層ビルの立ち並ぶ足下
変わらないものが確かにあるという証拠
もし幽霊がやって来ても
元の世界に送り返してしまうだろう
 取り敢えず最初の二行。
超高層ビルの立ち並ぶ足下」の「立ち並ぶ」は僕が勝手に追加した意訳なんだけれど、原文を直訳すれば「巨大な超高層ビル群の足下(A los pies de enormes rascacielos)」である。日本版の歌詞における「摩天楼」とは「超高層建築物」の事なのであって、要するにこの部分は全く同じ事を言っているワケである。
 
次の「時代錯誤の罠」についてなんだけれど、これは「摩天楼」という(当時は特に)文化的・時代的発展の象徴であり、つまりは流れゆく時間の先端に位置する事物に対して、過去の時間を背負った罠がその足下に存在しているという意味合いではないだろうか。「摩天楼の足下」に「罠」という言葉が呼応する事によって、過去の時間に場所的な固定性を付与しているのではないだろうか。
摩天楼の上層にある最先端の現在と、その足下に残存する過去。その時間的ギャップを持って「時代錯誤の罠」なのであると解釈すると、ラテンアメリカ版の「変わらないものが確かにあるという証拠」というフレーズも、オリジナルのニュアンスに忠実な表現なのだと思えるのである。「罠」が「証拠(“testigo”はどちらかというと「証人」という意味合いが強いが)」という単語に変わっている点については、「変わらない過去の性質」を「罠」は客観的な場所性によって強調し、「証拠(=証人)」は客観的な事物性(=他者性)によって強調しているという手法的な差異があるのではないかと思う。
 
さて、三~四行目から歌詞において核となる主語の差異が見え始める。
日本版における「血迷った危ない奴を極楽へいかせちゃう」行為の主体は、疑いの余地もなく美神である。すると、「いかせちゃうわ」という宣言における(省略された)一人称の主語と、その行為の主体は恐らく一致していて、我々は「これは美神というキャラクターの主観に基づいた歌詞のようだ」と気付き始める。極端な言い方をすれば「これは美神が歌っている歌なのだ」と。要するに「美神=私」なのだと。
一方でラテンアメリカ版においては、同箇所は「元の世界に送り返してしまうだろう(logrará hacerlo volver)」と翻訳されており、その主語は「彼女」である。行為の主体は美神であるが、文章の主語は三人称の「彼女」なのである。実のところを言うと、ラテンアメリカ版の歌詞は最初から「彼女の長い髪(Su largo cabello)」だとか「彼女の靴は~(Sus zapatos son)」などといった「美神=彼女」という視座に始まっていたワケなんだけれども、このフレーズにおいて明確な主語(美神=私)を匂わせ始める日本版との差異によって、改めてそうしたスタンスが実感を伴って浮かび上がってくるのでありました。
 
大胆な私の業(わざ)の中
どれでも
スキなのをあげる
(日本版)
 
いつも仕事に溺れて
愛について考える事はない
でも彼女はその方がいいと信じている
直前のパラグラフで予感した主語の差異は、この箇所において完全に露呈する。
日本版における「美神=私」の関係性は最早疑いようもなく、美神=私による魅力的で誘惑的で何とも羨ましそうでありながらしかし物凄くアブなそうな挑発が展開されているワケである。それに対してラテンアメリカ版は、「美神=彼女」というキャラクターが置かれている状態と、それに関しての彼女の判断(≈思想)について言及している。つまり、美神というキャラクターの性質をこれまでとは異なる観点から描写しているワケである。
  
Bye Bye Sadness, And find out
行き場のないGhost(あなた)だから…
(日本版)
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
大胆で、憧れの人
ラテンアメリカ版による美神のキャラクター的性質への言及はさらに多角化している。
まず「ゴーストバスター」なんだけれども、原文の”la cazafantasmas”は「ゴーストスイーパー」ではなく「ゴーストバスター」とか「ゴーストハンター」というニュアンスが近い。ちなみに映画『ゴーストバスターズ』のスペイン語タイトルはそのまま”Los cazafantasmas”である。一方でジョン・カーペンターの超絶大傑作『ゴーストハンターズ』は、原題が”Big Trouble in Little China”なので、スペイン語でも原題に準拠したタイトルが付けられている。カート・ラッセルが「ゴーストハンター」なのは日本だけなのである。
 
話を戻して、まあ「ゴーストバスター」も「ゴーストスイーパー」とほとんど同義なのであって、ここでラテンアメリカ版は美神の職業的性質を表出させているのである。この性質は美神という虚構のキャラクターにとって一番重要な性質なのであって、当たり前だけど我々は美神がゴーストスイーパー(ゴーストバスター)だからこの作品を観るのである。従って名前という固有名詞、美神という虚構存在の根拠そのものの直後にこの単語が連接する事には、我々は何の異論もないワケである。
さらに「大胆」で「憧れの人」と、美神の性質に対する多角的な言及は続き、前者は性格という「内面的性質」、そして後者は「他者による評価」と考える事が出来るであろう。
 
ラスト。
Bye Bye Sadness, And find out
私が今見つけ出して Ghost Sweeper
(日本版)
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
美しい女、それは美神(ミカミ)
美神の性質への言及は「美しい女」という言葉を持って幕を閉じる。思うに「美しい女」という言葉はそれなりに抽象性を孕んでいて、容貌が美しいのか心が美しいのか等といった、「『美しい』が具体的に何を形容するのか」という問題がある。だけどこの場合においては、「『美しい』が形容する対象は『美神』という存在そのものである」と僕は思っていて、なぜならこの歌詞は、これまで美神の性質の言及に数々の言葉を費やし、そのキャラクター性を(歌詞の中で)確定付けてきたから。該当箇所を振り返ってみたいと思いますが、
 
  • 風が長い髪を揺らす 魅惑的な身体に沿って…「形貌的性質」
  • 恐れることなく いつもお金を追い求める…「行動的性質」
  • もし幽霊がやって来ても 元の世界に送り返してしまうだろう…「行動的性質」
  • いつも仕事に溺れて 愛について考える事はない でも彼女はその方がいいと思っている…「美神の置かれている状態とそれに対する彼女自身の判断(≈思想)」
  • ゴーストバスター(ゴーストスイーパー)…「職業的性質」
  • 大胆…「内面的性質」
  • 憧れの人…「他者による評価」
 
この歌詞において、美神はこれらの多角的な性質を背負っているワケであって、こうした言語描写が押し並べて「美しい女」へと集約され、「美神」とイコールで結ばれるのではないか。すべては「美」へと帰結し、「美神」という存在の本質的な性質として表明されているのではないか。
 
ここで唐突にアランa.k.a.エミール=オーギュスト・シャルティエを引用したい。 
「たとえば、斧を振り下ろすためには、まず足に、膝に、腰に力を入れる―― 一方で、腕の準備をしながら。この準備はまず、神経を探ることであり、力がリズミカルに堆積する間の調和である。出だしは何の抵抗もない状態で始まる。まるでどんな重みもないかのように――。はたして、人間のかたちが至るところに広がっているこの意志を言い表している限り、人間のかたちは美しい。」
アラン著、神谷幹夫訳『定義集』岩波文庫, 2003年, P.37
まるでそれほど重みもないかのように「風が長い髪を揺らして」始まったこの歌詞は、形貌、行動、思想、内面といった性質を言語によって探りつつ、それらの言葉がリズミカルに堆積しながら、楽曲における音階や旋律と調和しているワケである。はたして、さあさあ果たして果たして、この意志によって言い表されている「美神」は美しいのではないのか。美しいのではないのか!美しいのか美しくないのか!!
 
――美しいのである。美しい女、それは美神なのである。なぜならば、身も蓋もない事を言うけれども、だって「神」だからね big money coming yeah!!!!!
 

ラ米アニソン歌詞・地獄先生ぬ~べ~

ぬ~べ~の主題歌『バリバリ最強No.1』は、楽曲自体としては『地獄先生ぬ~べ~』という作品世界における特定の要素に関わりを持つものではなくて、要するにアニメ作品の為に作られたアニソンではないワケです。それはたとえば『Get Wild』や『そばかす』なんかと同様のいわゆる「タイアップ曲」なんだけど、それでも主題歌として作品に組み込まれる事で、楽曲それ自体に付加価値としての作品的イメージがプラスされる事はあると思う。
 
今回のようなタイアップ曲にしても、ラテンアメリカに対しては「『地獄先生ぬ~べ~』の主題歌である」という前提で輸出されているワケなので、予めそれなりにアニメ作品としての性質が付加されたものとして受け止められているのではないかと思う。つまりスペイン語に翻訳するに当たって、作品的要素の存在しない歌詞に対し、「ぬ~べ~」という世界のニュアンスを織り込むような試みが為されているのではないだろうかと僕は思うのであります。
 
実は「ぬ~べ~」のオープニングでは、ボーカルが歌い出す前に物語背景を伝えるナレーションが挿入されている。この部分のみではあるけれども、作品的要素に触れた言葉が歌の前提として存在しているので、アニソンとして歌詞を翻訳する最低限のお膳立ては提供されていると思う。従って、たとえタイアップ曲であっても、オリジナルとの差異には「ぬ~べ~」という作品に対する何らかの言語的営みが表れているのではないか。僕はそんな期待をもとにこの歌詞を見ていきたいと思うんだよ☆イエイ!
 
 
地獄先生ぬ~べ~
Nube, el maestro del infierno
ラテンアメリカでの放送国: メキシコ、チリ
 
【歌詞原文】
"En este mundo,
hay muchos habitantes invisibles de la oscuridad,
en ocasiones ellos sacan sus colmillos
y viene atacarlos a ustedes.
Él será, el mensajero de la justicia
que llegó desde el fondo del infierno
para protegerlos a todos ustedes".
 
Muchas cosas tienes que aprender,
convertirte en invencible ser.
Sopla el viento en tu contra, has de seguir
con valor y una gran tenacidad.
 
Al que es débil debes proteger,
muchos hay, comprensivo serás,
fortaleza inmensa mostrarás,
voluntad de acero tú tendrás.
 
Ha llegado al mundo el ser
que a todos ha de sorprender,
día maravilloso es el que todos viven hoy.
 
La espera termina
porque el nuevo amanecer llegó.
El número uno seremos sin discusión
 
¡Libertad!,
nuevo ser.
 
El número uno seremos sin discusión.
¡Ya verás!
 
 
【拙訳】
(ナレーション)
「この世界には
目に見えない暗黒の住人がたくさんいる
時として彼らはその牙を剥き
君たちに襲いかかって来る
君たちみんなを守るため
地獄の底からやって来た彼は
正義の使者となるであろう」
 
君は多くの事を学ばなければならない
無敵の存在にならなければならない
向かい風は吹く
(でも)勇気と粘り強さを持って続けていかなければならない
 
君は思いやりある人物となるだろう
無限の強さを示すだろう
鋼の意志を持つだろう
君が守るべきは多くの弱き者たちだ
 
誰もが驚く世界にやって来た
素晴らしい日とはみんなが生きる今日のことだ
待つのはおしまい
新しい夜明けが来たから
文句なしに僕らがナンバーワンとなるのだ
 
自由!
新しい存在
 
文句なしに僕らがナンバーワンになる
きっと分かるよ!
 
 
【所感】
冒頭のナレーション部分は日本語版をほぼ忠実にトレースしているけど、オリジナルとの唯一の差異は最後の部分に確認できる。
彼は そんなヤツらから君たちを守るため
地獄の底からやって来た正義の使者
・・・・・・なのかもしれない
(日本版)
 
君たちみんなを守るため
地獄の底からやって来た彼は
正義の使者となるであろう
  オリジナルでは「ぬ~べ~は正義の使者なのかもしれない」という推量で濁しているところを、ラテンアメリカ版においては未来形が用いられていて、「ぬ~べ~は正義の使者となるであろう」と、断定には至らないもののかなりの確率でそれが起こる、主観的判断に基づいてそれを確信しているという表現に変化している。ここで僕としては、それが「なぜ変化したのか」よりも、「そもそもなぜオリジナルは推量によってぼかしているのか」という事を考えたい。
 
改めて記憶を辿ってみれば、「あれ?ぬ~べ~ってフツーに正義の使者と言っちゃってもいいんじゃね?」と思ったのだけれど、このナレーションは「正義の使者」というキャラクター的性質を確定させない事によって、ぬ~べ~の成長する余地を創出しているのではないだろうか。基本的には一話完結の構造を持つ作品に対して、「主人公である『ぬ~べ~』は成長によって、真の『正義の使者』という性質を獲得する、これはその物語である」というような、物語的連続性を示唆しているのではないだろうか。すると、「ぬ~べ~がその性質を獲得する」事は、現在ではなく未来に起こる現象である。ラテンアメリカ版が未来形という文法を用いて変化させたかに見えた表現は、実はその本質を的確に抽出したものだったのだと思えてくるワケである。
 
次に、サビに対するメロの部分なんだけど、ここからは主体についての差異が現れてくる。 
この世はわからない
ことがたくさんある
どんな風が吹いても
負けない人になろう
(日本版)
 
君は多くの事を学ばなければならない
無敵の存在にならなければならない
向かい風は吹く
(でも)勇気と粘り強さを持って続けていかなければならない
もう一つ続けて。 
それでも弱い奴
必ずいるもんだ
守ってあげましょう
それが強さなんだ
(日本版)
 
君は思いやりある人物となるだろう
無限の強さを示すだろう
鋼の意志を持つだろう
君が守るべきは多くの弱き者たちだ
日本版の特徴としては、「この世には分からない事がたくさんある/弱い奴が必ずいる」という世界の普遍的な性質に対し、「負けない人になろう/守ってあげましょう」という行為としての提言が対置されている。そしてその提言は「Let's~」というような呼び掛けとしての性質を孕んでいて、行為の主体は恐らく「俺たち」という複数性を有しているのだと思われる。要約すれば、「世界はこんな感じなんだけど、俺たちはこうしようぜ」という内容が歌われているワケである。
一方でラテンアメリカ版においては、世界の性質についての言及は欠落しており、「君」という主体が担うべき役割とそれに伴う諸性質、そしてそれを獲得するための心構え的な方法論が示されている。まず、「なぜ世界の性質が言及されないのか」という、その理由は結構明白だと僕は思っていて、それは既にナレーション部分が実施しているからであろう。日本版は恐らく、「まず初めに楽曲があって、その後にアニメ作品としてのナレーションを追加している」のだろうけど、ラテンアメリカ版においては「楽曲とナレーションが同時的に融合している」状態で主題歌が輸入されているのであろうから、歌詞におけるこのような差異は起こるべくして起こるのだろうと思う。それはとても自然な事。ナチュラル&ピース☆
 
従って考えるべきは、世界に対して行為する主体が「俺たち」でなく「君」に集約されている点であろう。一体この「君」とは誰を指しているのだろうか。作品の主人公である「ぬ~べ~」だろうか。ナレーションにおいて、「ぬ~べ~」は「彼(Él)」という代名詞によって指示されていたけれども、その立場はこの女性ボーカルの歌うメインの歌詞部分とは切り離せるものだろう。さらには「ぬ~べ~の未来に獲得する性質(=ぬ~べ~の成長)」というようなナレーションで示唆された物語的余地を考えてみると、ここでは「成長のための方法と、それによって獲得する性質」が示されているのだから、やはりこの主体(=君)は「ぬ~べ~」を指すのだと考える事が自然ではないかと思う。
 
次はサビ部分を抜き出してみたいと思います。 
今日から一番たくましいのだ
お待たせしましたすごい奴
今日から一番カッコいいのだ
バリバリ最強No.1
(日本版)
 
誰もが驚く世界にやって来た
素晴らしい日とはみんなが生きる今日のことだ
待つのはおしまい
新しい夜明けが来たから
文句なしに僕らがナンバーワンになるのだ
日本版における「今日から一番たくましい/カッコいい」という歌詞は、「一番たくましい/カッコいい」という性質が今日から開始される事を意味していて、つまり「今日」という瞬間が一つの定点的なターニング・ポイントとして設定されている。
それに対してラテンアメリカ版であるが、「誰もが驚く世界にやって来た」は現在完了(Ha llegado)によって表現されていて、「誰もが驚く世界」に到達した状態が過去から継続している状態を表している。そしてその時間的連続性の中で「みんなが生きる『今日』が素晴らしい」と歌っているワケであって、これは恐らく、「明日」が「今日」になればその「今日」もまた素晴らしいのである。「今日」は何度でもやって来るし、現在完了は未来の「今日」によって無限にアップデートされる。まあオリジナルで歌われている「今日」だって特定の日付を指しているワケではなくて、例えば「第一回目の放送が開始された1996年4月13日から一番たくましいのだ/カッコいいのだ」という事ではないのであって、その「今日」はある意味どこまでも更新されていくものではあるんだけれども、そうした時間的連続性をラテンアメリカ版は上手く表現しているというワケである。
 
まあそれはそれとして、このサビ部分において注目すべきポイントは、「ナンバーワンになる」主体が「僕ら」だと明言されている点であろう。厳密に言えば"seremos"という未来形の動詞によって一人称複数の主語が暗に表出しているのである。
メロ部分においては、「君(=ぬ~べ~)」に対する様々な要請と、その結果としての「君(=ぬ~べ~)」の役割が提示されていたワケなんだけど、最終的に「ナンバーワン」になるのは「僕ら」なのだという。つまりこの箇所においては、「君(=ぬ~べ~)」に対して「私」という主体が追加され、「僕ら」という主語を形成しているのである。KONISHIKI風に言えば「IとYOUでWE」というヤツである(ネタが古くてサーセンwwwwwww)。
 
「君」がぬ~べ~ならば、「私」は私、つまり視聴者であろう。この歌詞によれば、ぬ~べ~の成長によって将来的に我々はナンバーワンになるのである。不断の努力によってぬ~べ~は真なる性質を獲得し、そしてそれを見守る私達は未来において共にナンバーワンになるのである。それでは私達がぬ~べ~の頑張りに対してすべきことは何だろうかと考えると、それは「ぬ~べ~を応援する事」であろう。ここでラテンアメリカ版の本質が見えてくるワケなんだけど、世界に対して行為する主体を「君(=ぬ~べ~)」へと集約し、結果として「ナンバーワン」は私達と共有されるのだと宣言する事によって、この歌詞はオリジナルのいわゆる「タイアップ曲」に対し、「『ぬ~べ~』への応援歌」という性質を付加しているのである!見事だと思う。僕はこの翻訳に鬼の手を100本進呈したい。
 
続きまして、 
なるほど
ホント
(日本版)
 
自由!
新しい存在
オリジナルは何らかの事象を肯定する単語を重ねているが、とにかく意味内容として「肯定」という概念を表象する事がポイントなのではないかと。根拠は特にない。
それに対してラテンアメリカ版の「自由!」および「新しい存在(英語で言えばNew-being)」という単語がなぜ現出しているのかというと、なんか「ポジティブ」なイメージを導くために語呂とリズムのふるいに掛けて類義性を持つ言葉を選択したのではないかと。根拠は特にない。
無い頭を使って色々考えてみたんだけども、この部分についてはビシッとハマる解釈がどうも思い浮かばないのです。もしも翻訳者やその関係者の方がこの何の役にも立たないブログを目にして下さったなら、この箇所における翻訳の思惑を是非ご教示頂きたく存じ上げておりますのです。
 
最後。 
今日から一番
一番だ一番
(日本版)
 
文句なしに僕らがナンバーワンになる
きっと分かるよ!
時間の連続性の中で「今日」は何度でも更新される。現在と未来の素晴らしい「今日」を契機として、日本版では「今日から一番」の「今日」が表象する「現在」において、ラテンアメリカ版では"seremos"が表象する「未来」において、私達は「一番(=ナンバーワン)」になるのである。そして後者の世界では、それはぬ~べ~の活躍や成長によって実現される。
 
「きっと分かるよ!(¡Ya verás!)」は英語にすれば"you’ll see"という感じの表現で、「君もそのうち分かるよ」というような意味合いの言い回しである。
この「君」はもちろん「ぬ~べ~」なのであるが、こうした表現を含めてこれまでの歌詞をサマライズしてみると、「君は色々頑張らなきゃいけないんだけど、それによってスゴイ存在になるだろうし、そうすれば僕らも一緒に最高になれるんだ。君もきっとそのうち分かるよ」といった内容が示されていたワケであった。そしてこの「きっと分かるよ!」というフレーズの後には、自然とこのような言葉が浮かび上がって来るのではないだろうか。「だから頑張れぬ~べ~!」。
 
 
このようにラテンアメリカ版は、オリジナルの歌詞が持つ言葉自体のニュアンスを大きく崩す事なく、その行為や事象にまつわる主体を的確に方向づける事によって、主題歌を「キャラクターの応援歌」としての性質を有したアニソンに翻訳している。元々優れた楽曲の、歌詞翻訳によるアニソン的アダプテーション。ハッキリ言ってスゲーと思う。この翻訳者は、ラテンアメリカという地球の裏側からやって来たアニソン歌詞の使者・・・・・・なのかもしれない。

ラ米アニソン歌詞・ドラえもん

ぼくドラえもん」のドラえもんである。ジャイアンアナグラムに身を任せれば「ドラぼくえもん」である。
 
さすがにドラえもん中南米だけでなくスペインでも放送されていたので、主題歌はラテンアメリカ版とスペイン版の二種類のバージョンが存在している。つまり二種類の翻訳が存在しているので、そのどちらについても日本語への逆翻訳を実施していきたいと思います。
 
 
Doraemon, El Gato Cósmico
 
 
 
【歌詞原文】
Muchos sueños tengo yo
Que quisiera realizar,
Bellos sueños y deseos
Que yo quisiera lograr...
 
El bolsillo mágico,
Todo vuelve realidad,
Por el cielo libremente me gustaría volar
 
El gato cósmico te puede ayudar
¡Hola como están amiguitos!
 
Sí, sí, sí, todos queremos al Gato cósmico
Sí, sí, sí, todos queremos al Gato cósmico
 
 
【拙訳】
たくさんの夢がある
実現したい夢が
素敵な夢や願いを
叶えたいよ
 
魔法のポケットは
すべて現実に変えてくれる
空を自由に飛びたいな
 
宇宙猫(ドラえもん)が助けてくれるよ
「やあ!みんな調子はどうだい?」
 
はい、はい、はい、みんな大好き宇宙猫(ドラえもん
はい、はい、はい、みんな大好き宇宙猫(ドラえもん
 
 
スペイン版
 
【歌詞原文】
Ojalá mis sueños 
Se hicieran realidad 
Se hicieran realidad 
Porque tengo un montón 
 
Doraemon puede hacer 
Que se cumplan todos 
Con su bolsillo mágico 
Mis sueños se harán realidad 
 
Quisiera poder volar por el cielo azul 
(Esto es el gorrocoptero) 
 
Ja, Ja, Ja tú siempre ganas, Doraemon 
Ja, Ja, Ja tú siempre ganas, Doraemon
 
 
【拙訳】
私の夢が
叶うといいな
叶うといいな
だってたくさんあるんだから
 
ドラえもんは助けてくれる
全部叶えてくれる
魔法のポケットで
私の夢は実現するんだ
 
青空を飛べたらいいな
「はい、帽子コプター(タケコプター)」
 
ハ、ハ、ハ いつも流石だね、ドラえもん
ハ、ハ、ハ いつも流石だね、ドラえもん
*最後の二行は意訳です
 
 
【所感】
歌詞が四つのパラグラフに分かれているので、それぞれに捉えてみたいと思います。
 
[第一&第二パラグラフ]
第一パラグラフでは「夢のありあまる様相」が、そして第二パラグラフでは「夢を実現させる魔法のポケット(=ドラえもん)の存在」が示されており、この点についてはラテンアメリカ版、スペイン版ともに同様の構造を有している。これがオリジナルの日本語版とも相違がない事は言うまでもないであろう。ラテンアメリカ版の第二パラグラフは若干フライングしているけれど。
 
[第三パラグラフ]
ここからラテンアメリカ版において差異が発生している。その差異の部分、つまりドラえもんの台詞部分について抜き出してみたいと思う。
●「はい、タケコプター」(日本語オリジナル版)
●「はい、帽子コプター(タケコプター)」(スペイン版)
●「やあ!みんな調子はどうだい?」(ラテンアメリカ版)
日本、およびスペイン版においては、ドラえもんの台詞として「タケコプター」という架空の固有名詞が登場している。この架空性はもちろん「ドラえもん」という虚構の世界において成立している概念なのであって、言うなればある特定の虚構性に対する共通認識を表す言語表現であろう。つまり「『ドラえもん』という世界は、『タケコプター』が存在する世界なのである」というリアリティ・ラインの表明である。
 
こうした手法は古き良きアニソンに多く見られるものであって、たとえばマジンガーZの「正義の心をパイルダー・オン!」もそうだし、コンバトラーVの「超電磁ヨーヨー、超電磁タツマキ、超電磁スピン」なんてモロだし、そしてガオガイガーの「空間湾曲!ディバイディング・ドライバー!」なんかもその系譜を受け継いでいる。要するにこれらの歌詞は、意図されたリアリティ・ラインを主題歌によって提示する事で、我々がその虚構性を受け入れてアニメという非現実の世界に没入する行為を手助けしているのではないかと思う。
 
一方でラテンアメリカ版なんだけど、歌の中でドラえもんが口にする台詞にはそうした虚構の固有名詞が一切含まれていないどころか、それはあまつさえ日常的で儀礼的な性質の問答、すなわち「挨拶」へと差し替えられている。つまりリアリティ・ラインの提示を敢えて放棄しながら、同時に虚構の世界の方が普遍的な日常へとアクセスしているのである。『虚構船団の逆襲』ならぬ、虚構存在の逆流。しかも「挨拶」によってそうした観念的な流れを産み出すという方向性を採択する事で、ドラえもんを限り無くナチュラルに現実へ接触させているのである。
ドラえもんというコンテンツにはそのリアリティ・ラインを示す言語すら不要であり、それは虚構と現実との衝突に十分耐えうる強度を有しているのだというような、そんな判断が翻訳の際に為されているのではないか。僕はそれを「信頼」であると、「ドラえもんに対する信頼」であると思う。
 
[第四パラグラフ]
例によってまたそれぞれの該当箇所を抜き出してみます。
●アンアンアン とっても大好きドラえもん(日本語オリジナル版)
●ハ、ハ、ハ いつも流石だね、ドラえもん(スペイン版)
●はい、はい、はい、みんな大好き宇宙猫(ドラえもん)(ラテンアメリカ版)
 そもそも「アンアンアン」とは何なのかという問題を抱えているワケではあるけども、ここでは現在最も有力な学説とされている「『らんらんらん』や『るんるんるん』などの気分的感覚を表すオノマトペである」という解釈を採用して話を進めたい。
 
ラテンアメリカ版もスペイン版も、同箇所には特に明確な対象を指示する言葉を当て嵌めてはおらず、そこには言語としての「アンアンアン」に近似した意味作用が見て取れる。しかしながら差異はその直後に発生していて、歌詞を締め括る一文においてはそれぞれ主語が異なっているのである。従って個別に解釈していきたいと思います。
 
日本語版
「とっても大好きドラえもん」の主語は特定不可能である。それは「私」かもしれないし、「私達」かもしれない。あるいはよく行くコンビニの店員さんなのかもしれないし、もしかしたら会社の上司なのかもしれない。主語の不在が主体の断定を拒むのだけれど、それは言い換えればあらゆる主体が代入可能だという事でもある。
 
「アンアンアン」という規定された意味の外側を表象する言葉と共に、主語の不在によってすべての主体を巻き込んだ言葉が音楽となり、そして「ドラえもんが好き」という認識へと帰結する。つまり「ドラえもんが好き」な主体は無限の拡張を可能としているのである。これが日本語版の特徴なんだけど、こうやって考えてみるとコレすげー良くできてんなオイ。これは主語が無くても文章が成立する日本語ならではの歌詞なのであって、スペイン語や英語などでは不可能な表現である。
 
一方で、ラテンアメリカ版の「みんな大好き宇宙猫(ドラえもん)」の主語は「私達」である。原文のqueremosという動詞は一人称複数の主語によって活用されているワケであって、つまりは「私達はみんなドラえもんが好き」だという事である。
 
ここでそれ以前のパラグラフを振り返ってみたいのだけど、第一パラグラフにおいて歌われた「夢がたくさんあります」という状態の主語は「私(yo)」であった。第二パラグラフでは「魔法のポケットがそれを実現する」という他者の存在が挿入され、その文章における主語は「魔法のポケット」、つまり「ドラえもん」である。そして第三パラグラフにおいてドラえもんが現実にアクセスし、最後のパラグラフでは主語が「私達」となる。つまり、ドラえもんという虚構における存在が挨拶によって現実世界へ接触する事で、ドラえもんと関わりを持つ主体が数的な広がりを展開し、主語が「私」から「私達」に変容しているワケである。これもまた良くできてんなーオイ!このように秀逸な歌詞構成によって、最早これだけで一つのドラマが完成しているのではないだろうか。
 
まあ厳密に言えば、「『私達』ってどこまでの主体が包括されてんだよオラ!オレの友達もその『私達』に組み込まれてんのかどーなのかハッキリしろ死ね」という問題もあるんだけど、そこまで考え出すと健康に良くないし、僕はただでさえ風邪を引いているし吐血が止まらないし腕の骨も折れているので、その辺の問題については遺憾ながら放棄致します☆
 
スペイン版
「いつも流石だね、ドラえもん」の主語は疑いの余地も無く「ドラえもん」である。スペイン版についても第一パラグラフの主語は「私」、第二パラグラフでは「ドラえもん」なのであって、その点においてはラテンアメリカ版とも日本版とも一致している。第三パラグラフは日本版のそれと全く同様の構造を有していながら、最後のパラグラフで主語の変化が発生しているため、日本版との比較によってこの差異について考えたいと思う。
 
日本版における最終パラグラフの主語は、「特定不可能」であるが故に「あらゆる主体」が代入可能であった。しかしながら、恐らく代入不可能な主体が一つだけ想定できるのであって、それは「ドラえもん自身」である。スペイン版における主語の選択はこの点にこそ、この影なる部分にこそ光を当てているのではないだろうか。
 
 「はい、タケコプター」と言って夢を与えてくれるドラえもんに対して、「(だから)とっても大好き」だという無限の主体の眼差しは、ある意味で一方向的である。一方で、「はい、タケコプター」に対して「いつも流石だね」とその性質への言及を重ねる事により、我々が「流石である」と思うドラえもんの性質は、「ドラえもん(=君)」という主語によって世界に対して反射されていくワケである。我々という主体の眼差しは相変わらず一方的かもしれないが、少なくともこの歌詞の世界においては、ドラえもんという主語によってその眼差しが全方向的に拡散する事で、ドラえもんの性質を虚構性の中で決定付けているのである。「(無限の私達が)とっても大好きなドラえもん」ではなく、「『流石である』という性質が確定した存在としてのドラえもん」が歌われる事によって、ドラえもんを明確に賞賛する姿勢が広く行き渡っていく。ハッキリ言って、流石であると思う。
 
 
【まとめ】
「みんなちがって、みんないい」とはまさにこの事で、それぞれの歌詞にそれぞれの良さがある。ドラえもんは勿論スペイン語以外の言語にも翻訳されていて、それらの歌詞においても独自の視点があるのだろうし、一方で『夢をかなえてドラえもん』という素晴らしい歌によって今もなおドラえもんが続いているという事実に、僕は涙さえ浮かんできてしまうワケです。
 
2017年になっても「やっぱドラえもん大山のぶ代じゃないとなー。水田わさびは未だに慣れないわーwwww」などと言っている人は「慣れない」のではなく「元々慣れるつもりが無い」のであって、言い換えれば「オレ(達の世代)だけが観てきたドラえもん」に終始しているワケなんだけど、果たして当時の主題歌における日本語版もスペイン語版も、歌詞の最後はそのような閉塞的な主体性によって締め括られていただろうか。少なくともラテンアメリカ版においては、ドラえもんと関わる主体は「私」から「私達」へと広がっていったし、日本版においては実質無限の可能性を孕んでいるし、そしてそんなドラえもんをスペイン版は褒め称えているのではないだろうか。
 
慣れなくたって別に構わないけど、そうした懐古的価値観をドヤ顔で表明してみせる人がたまにいらっしゃるので、そんなもんせいぜい憐憫の情を向けられるか、もしくは時間が止まった者同士で動かない時計の針を虚しく擦り合わせるだけなのであって、それは決して褒められた行為じゃあないでしょう。
もしかして、大人になったら、そんな客観性も忘れちゃったのかな?そんな時には、色々と思い出してみようぜ!