ラ米アニソン歌詞・ドラえもん

ぼくドラえもん」のドラえもんである。ジャイアンアナグラムに身を任せれば「ドラぼくえもん」である。
 
さすがにドラえもん中南米だけでなくスペインでも放送されていたので、主題歌はラテンアメリカ版とスペイン版の二種類のバージョンが存在している。つまり二種類の翻訳が存在しているので、そのどちらについても日本語への逆翻訳を実施していきたいと思います。
 
 
Doraemon, El Gato Cósmico
 
 
 
【歌詞原文】
Muchos sueños tengo yo
Que quisiera realizar,
Bellos sueños y deseos
Que yo quisiera lograr...
 
El bolsillo mágico,
Todo vuelve realidad,
Por el cielo libremente me gustaría volar
 
El gato cósmico te puede ayudar
¡Hola como están amiguitos!
 
Sí, sí, sí, todos queremos al Gato cósmico
Sí, sí, sí, todos queremos al Gato cósmico
 
 
【拙訳】
たくさんの夢がある
実現したい夢が
素敵な夢や願いを
叶えたいよ
 
魔法のポケットは
すべて現実に変えてくれる
空を自由に飛びたいな
 
宇宙猫(ドラえもん)が助けてくれるよ
「やあ!みんな調子はどうだい?」
 
はい、はい、はい、みんな大好き宇宙猫(ドラえもん
はい、はい、はい、みんな大好き宇宙猫(ドラえもん
 
 
スペイン版
 
【歌詞原文】
Ojalá mis sueños 
Se hicieran realidad 
Se hicieran realidad 
Porque tengo un montón 
 
Doraemon puede hacer 
Que se cumplan todos 
Con su bolsillo mágico 
Mis sueños se harán realidad 
 
Quisiera poder volar por el cielo azul 
(Esto es el gorrocoptero) 
 
Ja, Ja, Ja tú siempre ganas, Doraemon 
Ja, Ja, Ja tú siempre ganas, Doraemon
 
 
【拙訳】
私の夢が
叶うといいな
叶うといいな
だってたくさんあるんだから
 
ドラえもんは助けてくれる
全部叶えてくれる
魔法のポケットで
私の夢は実現するんだ
 
青空を飛べたらいいな
「はい、帽子コプター(タケコプター)」
 
ハ、ハ、ハ いつも流石だね、ドラえもん
ハ、ハ、ハ いつも流石だね、ドラえもん
*最後の二行は意訳です
 
 
【所感】
歌詞が四つのパラグラフに分かれているので、それぞれに捉えてみたいと思います。
 
[第一&第二パラグラフ]
第一パラグラフでは「夢のありあまる様相」が、そして第二パラグラフでは「夢を実現させる魔法のポケット(=ドラえもん)の存在」が示されており、この点についてはラテンアメリカ版、スペイン版ともに同様の構造を有している。これがオリジナルの日本語版とも相違がない事は言うまでもないであろう。ラテンアメリカ版の第二パラグラフは若干フライングしているけれど。
 
[第三パラグラフ]
ここからラテンアメリカ版において差異が発生している。その差異の部分、つまりドラえもんの台詞部分について抜き出してみたいと思う。
●「はい、タケコプター」(日本語オリジナル版)
●「はい、帽子コプター(タケコプター)」(スペイン版)
●「やあ!みんな調子はどうだい?」(ラテンアメリカ版)
日本、およびスペイン版においては、ドラえもんの台詞として「タケコプター」という架空の固有名詞が登場している。この架空性はもちろん「ドラえもん」という虚構の世界において成立している概念なのであって、言うなればある特定の虚構性に対する共通認識を表す言語表現であろう。つまり「『ドラえもん』という世界は、『タケコプター』が存在する世界なのである」というリアリティ・ラインの表明である。
 
こうした手法は古き良きアニソンに多く見られるものであって、たとえばマジンガーZの「正義の心をパイルダー・オン!」もそうだし、コンバトラーVの「超電磁ヨーヨー、超電磁タツマキ、超電磁スピン」なんてモロだし、そしてガオガイガーの「空間湾曲!ディバイディング・ドライバー!」なんかもその系譜を受け継いでいる。要するにこれらの歌詞は、意図されたリアリティ・ラインを主題歌によって提示する事で、我々がその虚構性を受け入れてアニメという非現実の世界に没入する行為を手助けしているのではないかと思う。
 
一方でラテンアメリカ版なんだけど、歌の中でドラえもんが口にする台詞にはそうした虚構の固有名詞が一切含まれていないどころか、それはあまつさえ日常的で儀礼的な性質の問答、すなわち「挨拶」へと差し替えられている。つまりリアリティ・ラインの提示を敢えて放棄しながら、同時に虚構の世界の方が普遍的な日常へとアクセスしているのである。『虚構船団の逆襲』ならぬ、虚構存在の逆流。しかも「挨拶」によってそうした観念的な流れを産み出すという方向性を採択する事で、ドラえもんを限り無くナチュラルに現実へ接触させているのである。
ドラえもんというコンテンツにはそのリアリティ・ラインを示す言語すら不要であり、それは虚構と現実との衝突に十分耐えうる強度を有しているのだというような、そんな判断が翻訳の際に為されているのではないか。僕はそれを「信頼」であると、「ドラえもんに対する信頼」であると思う。
 
[第四パラグラフ]
例によってまたそれぞれの該当箇所を抜き出してみます。
●アンアンアン とっても大好きドラえもん(日本語オリジナル版)
●ハ、ハ、ハ いつも流石だね、ドラえもん(スペイン版)
●はい、はい、はい、みんな大好き宇宙猫(ドラえもん)(ラテンアメリカ版)
 そもそも「アンアンアン」とは何なのかという問題を抱えているワケではあるけども、ここでは現在最も有力な学説とされている「『らんらんらん』や『るんるんるん』などの気分的感覚を表すオノマトペである」という解釈を採用して話を進めたい。
 
ラテンアメリカ版もスペイン版も、同箇所には特に明確な対象を指示する言葉を当て嵌めてはおらず、そこには言語としての「アンアンアン」に近似した意味作用が見て取れる。しかしながら差異はその直後に発生していて、歌詞を締め括る一文においてはそれぞれ主語が異なっているのである。従って個別に解釈していきたいと思います。
 
日本語版
「とっても大好きドラえもん」の主語は特定不可能である。それは「私」かもしれないし、「私達」かもしれない。あるいはよく行くコンビニの店員さんなのかもしれないし、もしかしたら会社の上司なのかもしれない。主語の不在が主体の断定を拒むのだけれど、それは言い換えればあらゆる主体が代入可能だという事でもある。
 
「アンアンアン」という規定された意味の外側を表象する言葉と共に、主語の不在によってすべての主体を巻き込んだ言葉が音楽となり、そして「ドラえもんが好き」という認識へと帰結する。つまり「ドラえもんが好き」な主体は無限の拡張を可能としているのである。これが日本語版の特徴なんだけど、こうやって考えてみるとコレすげー良くできてんなオイ。これは主語が無くても文章が成立する日本語ならではの歌詞なのであって、スペイン語や英語などでは不可能な表現である。
 
一方で、ラテンアメリカ版の「みんな大好き宇宙猫(ドラえもん)」の主語は「私達」である。原文のqueremosという動詞は一人称複数の主語によって活用されているワケであって、つまりは「私達はみんなドラえもんが好き」だという事である。
 
ここでそれ以前のパラグラフを振り返ってみたいのだけど、第一パラグラフにおいて歌われた「夢がたくさんあります」という状態の主語は「私(yo)」であった。第二パラグラフでは「魔法のポケットがそれを実現する」という他者の存在が挿入され、その文章における主語は「魔法のポケット」、つまり「ドラえもん」である。そして第三パラグラフにおいてドラえもんが現実にアクセスし、最後のパラグラフでは主語が「私達」となる。つまり、ドラえもんという虚構における存在が挨拶によって現実世界へ接触する事で、ドラえもんと関わりを持つ主体が数的な広がりを展開し、主語が「私」から「私達」に変容しているワケである。これもまた良くできてんなーオイ!このように秀逸な歌詞構成によって、最早これだけで一つのドラマが完成しているのではないだろうか。
 
まあ厳密に言えば、「『私達』ってどこまでの主体が包括されてんだよオラ!オレの友達もその『私達』に組み込まれてんのかどーなのかハッキリしろ死ね」という問題もあるんだけど、そこまで考え出すと健康に良くないし、僕はただでさえ風邪を引いているし吐血が止まらないし腕の骨も折れているので、その辺の問題については遺憾ながら放棄致します☆
 
スペイン版
「いつも流石だね、ドラえもん」の主語は疑いの余地も無く「ドラえもん」である。スペイン版についても第一パラグラフの主語は「私」、第二パラグラフでは「ドラえもん」なのであって、その点においてはラテンアメリカ版とも日本版とも一致している。第三パラグラフは日本版のそれと全く同様の構造を有していながら、最後のパラグラフで主語の変化が発生しているため、日本版との比較によってこの差異について考えたいと思う。
 
日本版における最終パラグラフの主語は、「特定不可能」であるが故に「あらゆる主体」が代入可能であった。しかしながら、恐らく代入不可能な主体が一つだけ想定できるのであって、それは「ドラえもん自身」である。スペイン版における主語の選択はこの点にこそ、この影なる部分にこそ光を当てているのではないだろうか。
 
 「はい、タケコプター」と言って夢を与えてくれるドラえもんに対して、「(だから)とっても大好き」だという無限の主体の眼差しは、ある意味で一方向的である。一方で、「はい、タケコプター」に対して「いつも流石だね」とその性質への言及を重ねる事により、我々が「流石である」と思うドラえもんの性質は、「ドラえもん(=君)」という主語によって世界に対して反射されていくワケである。我々という主体の眼差しは相変わらず一方的かもしれないが、少なくともこの歌詞の世界においては、ドラえもんという主語によってその眼差しが全方向的に拡散する事で、ドラえもんの性質を虚構性の中で決定付けているのである。「(無限の私達が)とっても大好きなドラえもん」ではなく、「『流石である』という性質が確定した存在としてのドラえもん」が歌われる事によって、ドラえもんを明確に賞賛する姿勢が広く行き渡っていく。ハッキリ言って、流石であると思う。
 
 
【まとめ】
「みんなちがって、みんないい」とはまさにこの事で、それぞれの歌詞にそれぞれの良さがある。ドラえもんは勿論スペイン語以外の言語にも翻訳されていて、それらの歌詞においても独自の視点があるのだろうし、一方で『夢をかなえてドラえもん』という素晴らしい歌によって今もなおドラえもんが続いているという事実に、僕は涙さえ浮かんできてしまうワケです。
 
2017年になっても「やっぱドラえもん大山のぶ代じゃないとなー。水田わさびは未だに慣れないわーwwww」などと言っている人は「慣れない」のではなく「元々慣れるつもりが無い」のであって、言い換えれば「オレ(達の世代)だけが観てきたドラえもん」に終始しているワケなんだけど、果たして当時の主題歌における日本語版もスペイン語版も、歌詞の最後はそのような閉塞的な主体性によって締め括られていただろうか。少なくともラテンアメリカ版においては、ドラえもんと関わる主体は「私」から「私達」へと広がっていったし、日本版においては実質無限の可能性を孕んでいるし、そしてそんなドラえもんをスペイン版は褒め称えているのではないだろうか。
 
慣れなくたって別に構わないけど、そうした懐古的価値観をドヤ顔で表明してみせる人がたまにいらっしゃるので、そんなもんせいぜい憐憫の情を向けられるか、もしくは時間が止まった者同士で動かない時計の針を虚しく擦り合わせるだけなのであって、それは決して褒められた行為じゃあないでしょう。
もしかして、大人になったら、そんな客観性も忘れちゃったのかな?そんな時には、色々と思い出してみようぜ!