ラ米アニソン歌詞・GS美神

取り敢えず文末にbig money coming, yeah!!を付ければ大抵の問題は乗り切れる、そんな風に考えていた時期が僕にもありました。
それくらいこの主題歌『GHOST SWEEPER』を好きだったワケなんだけど、ラテンアメリカ版のそれもなかなかどうして極楽へ到達しているなあと。コーラスが思いっ切り日本語のまま残っちゃってる部分も含めて逆にイイ、ある意味でのラテンのノリを体感できる翻訳大作戦なのであります。
 
 
Cazafantasmas Mikami
ラテンアメリカでの放送国: メキシコ、アルゼンチン、ベネズエラ、チリ
 
【歌詞原文】
Su largo cabello el viento mece 
sobre un bello cuerpo seductor. 
Sus zapatos son con muy alto tacón, 
siempre en busca de dinero y sin temor. 

A los pies de enormes rascacielos, 
testigos que inmutables pueden ver 
que sin excepción, si llega una aparición 
a su mundo logrará hacerlo volver. 

Siempre inmersa en su labor, 
que nunca piensa en el amor. 
Pero ella cree que así es mejor. 

Mikami, Mikami, la cazafantasmas, 
osada, admirada. 

Mikami, Mikami, la cazafantasmas, 
hermosa mujer es Mikami
 
 
【拙訳】
風が長い髪を揺らす
魅惑的な身体に沿って
彼女の靴は とても踵の高いハイヒール
恐れることなく いつもお金を追い求める
 
超高層ビルの立ち並ぶ足下
変わらないものが確かにあるという証拠
もし幽霊がやって来ても
元の世界に送り返してしまうだろう
 
いつも仕事に溺れて
愛について考える事はない
でも彼女はその方がいいと信じている
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
大胆で、憧れの人
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
美しい女、それは美神(ミカミ)
 
 
【所感】
まずは冒頭部分から。
長い髪なびかせて
悩まし気なボディ
この都会(まち)を ハイヒールで
跳び回れば Big money coming, yeah!
(日本版)
 
風が長い髪を揺らす
魅惑的な身体に沿って
彼女の靴は とても踵の高いハイヒール
恐れることなく いつもお金を追い求める
長い髪、セクシーな身体、ハイヒール、お金という美神のキャラクターに関連する諸要素の表出が忠実にトレースされている。
ここで僕が好きなのは、単に表現の問題ではあるのだけれども、ラテンアメリカ版の「魅惑的な身体に沿って長い髪が揺れる」という描写である。風になびく長い髪が身体のラインをなぞる様子は、美しい筆によって艶やかな造形が描かれる光景を彷彿とさせる。「髪」と「身体」という造形的イメージを、「風」という目に見えない運動性を媒介として結び付ける事で引き立つ美神の美。そして造形に対して「沿う(sobre)」という触覚的な感覚が、その輪郭を艶めかしく際立たせ、事物は美という性質の中に溶け込んでいくのである。つまり大変美しい。本当にありがとうございます。
 
摩天楼の足下
時代錯誤の罠
血迷った危ない奴らなら
極楽へいかせちゃうわ
(日本版)
 
超高層ビルの立ち並ぶ足下
変わらないものが確かにあるという証拠
もし幽霊がやって来ても
元の世界に送り返してしまうだろう
 取り敢えず最初の二行。
超高層ビルの立ち並ぶ足下」の「立ち並ぶ」は僕が勝手に追加した意訳なんだけれど、原文を直訳すれば「巨大な超高層ビル群の足下(A los pies de enormes rascacielos)」である。日本版の歌詞における「摩天楼」とは「超高層建築物」の事なのであって、要するにこの部分は全く同じ事を言っているワケである。
 
次の「時代錯誤の罠」についてなんだけれど、これは「摩天楼」という(当時は特に)文化的・時代的発展の象徴であり、つまりは流れゆく時間の先端に位置する事物に対して、過去の時間を背負った罠がその足下に存在しているという意味合いではないだろうか。「摩天楼の足下」に「罠」という言葉が呼応する事によって、過去の時間に場所的な固定性を付与しているのではないだろうか。
摩天楼の上層にある最先端の現在と、その足下に残存する過去。その時間的ギャップを持って「時代錯誤の罠」なのであると解釈すると、ラテンアメリカ版の「変わらないものが確かにあるという証拠」というフレーズも、オリジナルのニュアンスに忠実な表現なのだと思えるのである。「罠」が「証拠(“testigo”はどちらかというと「証人」という意味合いが強いが)」という単語に変わっている点については、「変わらない過去の性質」を「罠」は客観的な場所性によって強調し、「証拠(=証人)」は客観的な事物性(=他者性)によって強調しているという手法的な差異があるのではないかと思う。
 
さて、三~四行目から歌詞において核となる主語の差異が見え始める。
日本版における「血迷った危ない奴を極楽へいかせちゃう」行為の主体は、疑いの余地もなく美神である。すると、「いかせちゃうわ」という宣言における(省略された)一人称の主語と、その行為の主体は恐らく一致していて、我々は「これは美神というキャラクターの主観に基づいた歌詞のようだ」と気付き始める。極端な言い方をすれば「これは美神が歌っている歌なのだ」と。要するに「美神=私」なのだと。
一方でラテンアメリカ版においては、同箇所は「元の世界に送り返してしまうだろう(logrará hacerlo volver)」と翻訳されており、その主語は「彼女」である。行為の主体は美神であるが、文章の主語は三人称の「彼女」なのである。実のところを言うと、ラテンアメリカ版の歌詞は最初から「彼女の長い髪(Su largo cabello)」だとか「彼女の靴は~(Sus zapatos son)」などといった「美神=彼女」という視座に始まっていたワケなんだけれども、このフレーズにおいて明確な主語(美神=私)を匂わせ始める日本版との差異によって、改めてそうしたスタンスが実感を伴って浮かび上がってくるのでありました。
 
大胆な私の業(わざ)の中
どれでも
スキなのをあげる
(日本版)
 
いつも仕事に溺れて
愛について考える事はない
でも彼女はその方がいいと信じている
直前のパラグラフで予感した主語の差異は、この箇所において完全に露呈する。
日本版における「美神=私」の関係性は最早疑いようもなく、美神=私による魅力的で誘惑的で何とも羨ましそうでありながらしかし物凄くアブなそうな挑発が展開されているワケである。それに対してラテンアメリカ版は、「美神=彼女」というキャラクターが置かれている状態と、それに関しての彼女の判断(≈思想)について言及している。つまり、美神というキャラクターの性質をこれまでとは異なる観点から描写しているワケである。
  
Bye Bye Sadness, And find out
行き場のないGhost(あなた)だから…
(日本版)
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
大胆で、憧れの人
ラテンアメリカ版による美神のキャラクター的性質への言及はさらに多角化している。
まず「ゴーストバスター」なんだけれども、原文の”la cazafantasmas”は「ゴーストスイーパー」ではなく「ゴーストバスター」とか「ゴーストハンター」というニュアンスが近い。ちなみに映画『ゴーストバスターズ』のスペイン語タイトルはそのまま”Los cazafantasmas”である。一方でジョン・カーペンターの超絶大傑作『ゴーストハンターズ』は、原題が”Big Trouble in Little China”なので、スペイン語でも原題に準拠したタイトルが付けられている。カート・ラッセルが「ゴーストハンター」なのは日本だけなのである。
 
話を戻して、まあ「ゴーストバスター」も「ゴーストスイーパー」とほとんど同義なのであって、ここでラテンアメリカ版は美神の職業的性質を表出させているのである。この性質は美神という虚構のキャラクターにとって一番重要な性質なのであって、当たり前だけど我々は美神がゴーストスイーパー(ゴーストバスター)だからこの作品を観るのである。従って名前という固有名詞、美神という虚構存在の根拠そのものの直後にこの単語が連接する事には、我々は何の異論もないワケである。
さらに「大胆」で「憧れの人」と、美神の性質に対する多角的な言及は続き、前者は性格という「内面的性質」、そして後者は「他者による評価」と考える事が出来るであろう。
 
ラスト。
Bye Bye Sadness, And find out
私が今見つけ出して Ghost Sweeper
(日本版)
 
美神(ミカミ) 美神(ミカミ) ゴーストバスター
美しい女、それは美神(ミカミ)
美神の性質への言及は「美しい女」という言葉を持って幕を閉じる。思うに「美しい女」という言葉はそれなりに抽象性を孕んでいて、容貌が美しいのか心が美しいのか等といった、「『美しい』が具体的に何を形容するのか」という問題がある。だけどこの場合においては、「『美しい』が形容する対象は『美神』という存在そのものである」と僕は思っていて、なぜならこの歌詞は、これまで美神の性質の言及に数々の言葉を費やし、そのキャラクター性を(歌詞の中で)確定付けてきたから。該当箇所を振り返ってみたいと思いますが、
 
  • 風が長い髪を揺らす 魅惑的な身体に沿って…「形貌的性質」
  • 恐れることなく いつもお金を追い求める…「行動的性質」
  • もし幽霊がやって来ても 元の世界に送り返してしまうだろう…「行動的性質」
  • いつも仕事に溺れて 愛について考える事はない でも彼女はその方がいいと思っている…「美神の置かれている状態とそれに対する彼女自身の判断(≈思想)」
  • ゴーストバスター(ゴーストスイーパー)…「職業的性質」
  • 大胆…「内面的性質」
  • 憧れの人…「他者による評価」
 
この歌詞において、美神はこれらの多角的な性質を背負っているワケであって、こうした言語描写が押し並べて「美しい女」へと集約され、「美神」とイコールで結ばれるのではないか。すべては「美」へと帰結し、「美神」という存在の本質的な性質として表明されているのではないか。
 
ここで唐突にアランa.k.a.エミール=オーギュスト・シャルティエを引用したい。 
「たとえば、斧を振り下ろすためには、まず足に、膝に、腰に力を入れる―― 一方で、腕の準備をしながら。この準備はまず、神経を探ることであり、力がリズミカルに堆積する間の調和である。出だしは何の抵抗もない状態で始まる。まるでどんな重みもないかのように――。はたして、人間のかたちが至るところに広がっているこの意志を言い表している限り、人間のかたちは美しい。」
アラン著、神谷幹夫訳『定義集』岩波文庫, 2003年, P.37
まるでそれほど重みもないかのように「風が長い髪を揺らして」始まったこの歌詞は、形貌、行動、思想、内面といった性質を言語によって探りつつ、それらの言葉がリズミカルに堆積しながら、楽曲における音階や旋律と調和しているワケである。はたして、さあさあ果たして果たして、この意志によって言い表されている「美神」は美しいのではないのか。美しいのではないのか!美しいのか美しくないのか!!
 
――美しいのである。美しい女、それは美神なのである。なぜならば、身も蓋もない事を言うけれども、だって「神」だからね big money coming yeah!!!!!