ラ米アニソン歌詞・新世紀エヴァンゲリオン

僕もエヴァの呪縛に囚われた者の一人として、意気揚々と日本語訳に取り組んでみたワケなんだけれども、表面的な字面だけを見比べてみたら、ラテンアメリカ版の歌詞はオリジナルのそれとほとんど同じなのでした。要するにATフィールドが物凄く中和されていて、コイツはゼーレが黙っちゃいませんよと思ったのであります。
しかしながら、単語として表層的に類似してたって、そこには1万2千層の言語構造があるんだからっ!というヤツである。結果としてやはり差異は認識できるのであって、こんな時は「そうか、そういう事かリリン」と呟いて笑えばいいと思ったのである。というワケで甘き差異よ、来たれ。
 
 
ラテンアメリカでの放送国: メキシコ、ペルー、チリ、コロンビア
 
 
【歌詞原文】
Así como un despiadado ángel
joven Mesías llega a ser leyenda...
 
Ahora el viento azul
golpea la puerta de tu corazón
solamente estás contemplándome así
con esa sonrisa cándida.
 
Algo enternecedor
es lo que tu buscas con obcecación
y no puedes ver tu destino así
con ojos tan inocentes.
 
Yo creo que algún día podrás
darte cuenta que en tu espalda
llevas las alas que rumbo al lejano
futuro te llevarán.
 
La premisa del despiadado ángel
a través del portal de tu alma volará
si por sólo un instante de tibio dolor
al templo de tus recuerdos traicionaras
Abrazando este cielo resplandecerás
joven Mesías llega a ser leyenda.
 
 
【拙訳】
残酷な天使のように
若き救世主よ伝説になれ
 
今 青い風が
君の心の扉を叩く
君はただ私を見つめているだけ
その無邪気な笑顔で
 
心を打つもの
それは君が執着して求めるもの
そしてそんなに無垢な瞳でも
君は運命を見ることはできない
 
私は信じる いつの日か
君は気付くだろう その背中には
遥か未来を目指した羽を
身に着けていることを
 
君の心の入り口を通って飛んでいくだろう
たとえ生ぬるい痛みの一瞬だとしても
記憶の殿堂を裏切ったなら
この空を抱いて輝くだろう
若き救世主よ伝説になれ
 
 
【所感】
まず言及しておきたいのは、開始二行目の“joven Mesías llega a ser leyenda”を「若き救世主よ伝説になれ」と訳しましたけど、一方でこれは「若き救世主は伝説になる」とも訳せるワケです。でもそうではなくて、これは”joven Mesías(=若き救世主)”に対する命令文だろうと、「若き救世主よ、(君は)伝説になれ」という事だろうと僕は思うのです。
人の名前の後に命令形に活用された動詞を配置する際、厳密にはそれらの間をコンマで区切るべきであろうけど、世の中にはそうなっていない事も多々あるワケで。たとえばキャプテン・アメリカがハルクに対して「ハルク、(君は)暴れろ」と言う時、英語では”Hulk (,) smash!”と言っているように、それをスペイン語では”¡Hulk (,) aplasta!”というワケであって、この歌詞においても同じように”joven Mesías (,) llega (a ser leyenda)”と、「若き救世主よ、(君は)伝説になれ」と言っているのであろう。だってオリジナルがそーなんだから。
 
その上で歌詞を見ていきたいと思いますが、 
残酷な天使のように
少年よ神話になれ
(日本版)
 
残酷な天使のように
若き救世主よ伝説になれ
恐らくはこの箇所が、厳密に言えばこの二行目が、両歌詞における最初にして最大の差異である。もう第一話からカヲル君が出てきちゃったような感じである。
まずはその差異を対比させてみたいと思います。
 
A「少年/若き救世主」(よ) B「神話/伝説」(になれ)
 
そして、対比させたそれぞれの言葉の性質を簡単に箇条書きにしていきたいと思います。
 
A「少年/若き救世主」
・少年…年の若い男子。普遍的な存在。たくさんいる。フツー。
・若き救世主(メシア)…年の若い人類の救い主。究極的に選ばれた存在。キリスト教の文脈においては一人しかいないし、一般的な広義の意味でもほとんどいない。超特別。本人曰く又吉イエスはメシアらしいが、その真偽は分かりかねるけれども取り敢えずあの人は若くはないのでこれには該当しない。
 
B「神話/伝説」
・神話…神様や聖なる事柄についての話。超大昔の出来事であり場所の実在性は曖昧。
・伝説…事実に基づいた前提による言い伝え。時と場所はそれなりに明確。
 
これを踏まえた上で元々の文章を再構築してみます。
 
●「フツーの年の若い男子」が「時間と場所の曖昧な聖なる話」になりなさい
(日本語版)
  ●「超特別な選ばれた年の若い人類の救い主」が「時間と場所の明確な言い伝え」になりなさい
 
そしたら色々と考えていきます。
 
ラテンアメリカ版における「救世主(=超特別な選ばれた年の若い人類の救い主)」が碇シンジ君を指し示しているだろう事は想像に難くない。一方で「少年(=フツーの年の若い男子)」は、碇シンジ君をその対象として「含んでいる」という範囲性を持つ名詞である。シンジ君は確かに選ばれた存在だけれども、しかし同時にフツーの14歳の少年としての性質を帯びた主人公なのであって、だからこそ彼は劇中において色々と葛藤するワケである。
このニュアンスを加味しつつ、さらには時と場所の「曖昧/明確」という性質を言い換えながらもう一度文章を再構築してみると、
 
 ●「非限定的な主体」が「時と場所の非特定的な聖なる話」になりなさい
(日本語版)
 ● 「限定的な主体」が「時と場所の特定的な言い伝え」になりなさい
 
というようなそれぞれの構造が見えてくるのであって、つまり日本版は主体もその変容すべき対象も「非限定的(=非特定的)」な性質を有している。一方でラテンアメリカ版は、主体もその変容する対象も「限定的(=特定的)」な性質を帯びているワケで、両者に共通しているのは、それが「行為」として他者によって命令されているという点である。
 
今度はそれぞれの性質をそれなりに嚙み砕いて表現してみると、
 
 ●「何者でもない存在」が「よく分からないけど手の届かない壮大で神聖なもの」に「行為」としてなりなさい
(日本語版)
 
何だか滅茶苦茶な事を言っているように思える。「何者でもない存在」と「よく分からないけど手の届かない壮大で神聖なもの」なんて到底連関し得ない性質同士を、「命令」が強制的に結び付けているワケである。
しかしながら、「少年」にとっては、命令でもされなければ「神話」なんて(逆に)眼中にも無かったであろう。観点を変えれば、ここで「命令」はある種の「後ろ盾」として機能していて、「よく分からないもの」を目指す主体の行為を正当化しているようにも思える。つまりこの命令によって「なんかよくわかんねーけど取り敢えず歩き出す」という行為が可能となるのである。そこにはエヴァの世界において大人達に命令されながら、「なんかよくわかんねーもの」の氾濫に対しても頑張って立ち向かったり逃げ回ったりするシンジ君が見えてくるようでもあり、そしてまた「なんかよくわかんねーもの」を突き付けられながらも一話一話を行為として観続ける、何者でもない我々の姿もオーバーラップしてくるのではないか。
人類補完計画」だの「裏死海文書」だの、意味を表す言葉はどんどん出てくるんだけど、一方でその意味内容はことごとく宙吊りにされていく。宮台真司の言う「シニフィアンの過剰」を目の当たりにする我々の、それでもその意味内容を手中に収めようとする気持ちが作品を観るモチベーションに加担するような、「何者でもない存在」と「よくわかんねーもの」を「行為」が結び付けるという関係性を、この歌詞は彷彿とさせるのである。
 
 ● 「選ばれし存在」が「特定性を有した明確に言い伝えられるもの」に「行為」として「なりなさい」
 
一方でこちらの行為主体は明確に碇シンジ君を指すのであって、我々は含まれない。我々は「選ばれた存在」などでは、とりわけ「人類を救済するという規模において『選ばれた存在』」などでは決してない。自身をその意味で「選ばれた存在」であると認識した結果の一つが又吉イエス大先生なのだとすれば、そうした否定的な思いは確信へと変わるであろう。
碇シンジ君という特定の存在が、特定の虚構世界において、特定の言い伝えになる。すべての事象はテレビの中に、すなわち作品世界の中における出来事として回収されていく。
すると、
 
  ●「選ばれし存在」が「特定性を有した明確に言い伝えられるもの」に「行為」として「なりなさい」
 
 という命令文は、作品世界を外側から眺める我々に取ってみれば、
 
  ●「選ばれし存在」が「特定性を有した明確に言い伝えられるもの」に「現象」として「なる」
 
という単純な肯定文とほとんど同義であろう。他者の「行為」は、私にとっては「現象」である。「若き救世主よ伝説になれ」という限定性・特定性を有した単語の連なりによって構成された命令は、「若き救世主が伝説になる」という限定的で特定的な現象を肯定する。「飛ばせ鉄拳ロケットパンチ」でマジンガーZロケットパンチを飛ばすように、「怒れ鋼のサイボーグ」で獅子王凱が怒りを炸裂させるように、それは虚構世界に向けた他者としての願いに似た命令、すなわち古き良きアニソンにおける「応援」の系譜を踏襲するものであり、キャラクターの「行為=現象」の肯定によって視聴者は虚構世界に参加するのである。つまりアニソンの伝統的な視座によってエヴァという作品を捉えた翻訳だと言えるのではないだろうか。 
 
蒼い風がいま
胸のドアを叩いても
私だけをただ見つめて
微笑んでるあなた
(日本版)
 
今 青い風が
君の心の扉を叩く
君はただ私を見つめているだけ
その無邪気な笑顔で
もうほとんどオリジナルに忠実な翻訳っぷりで、差異があるのは「あなた」および「」が指示する主体だけであろう。
日本版において「あなた」は「碇シンジ君」であると同時に、何者でもない存在としての非限定的な主体である「我々」を含む事も可能であろう。一方で「」には「『あなた』以外の他者」が代入可能であり、ここでは逆に「あなた」に含まれない部分の「我々」もその対象である。これは「少年」に含まれない青年以上の男性とか女性視聴者全般とかそういう意味ではなくて、「碇シンジ君」の持つ「特別でない普遍的な性質」に自分自身を重ね合わせるのか合わせないのかという点において、「我々」は「あなた碇シンジ君」に含まれるのか含まれないのかという差異が発生するのだと思う。
それに対してラテンアメリカ版においては、「」とは「若き救世主」である「碇シンジ君」単体の事であろうし、「」は彼を応援する「我々」であろう。その意味で、「我々」の役割は限りなくミサトさんに近い。 
 
そっとふれるもの
もとめることに夢中で
運命さえ まだ知らない
いたいけな瞳
(日本版)
 
心を打つもの
それは君が執着して求めるもの
そしてそんなに無垢な瞳でも
君は運命を見ることはできない
オリジナルのオープニングでは、「いたいけな瞳」の部分において綾波レイの瞳がクローズアップで映し出される演出も影響してか、この「瞳」の持ち主は必ずしも碇シンジ君には限らない気がしてしまう。それはチルドレンという「特別でない普遍的な性質」に対するクローズアップなのであろうかと思うと、このパラグラフにおける主語の不在については腑に落ちる部分が大きい。
一方のラテンアメリカ版はスペイン語の構造的に主語が引き続き明示されていて、「君=碇シンジ君」という固定化した関係性に立脚した描写が展開されていると思える。映像においてはオリジナルと同様、”con ojos tan inocentes{=そんなに無垢な瞳で(も)}”の箇所が綾波レイの瞳とオーバーラップしているワケだけれど、それは虚構世界における選ばれた存在としての「主体の限定性」が、碇シンジ君から綾波レイに一瞬スライドしているようなものではなかろうか。つまりこの歌詞の文脈においては、我々と彼ら(虚構のキャラクター達)はどこまでも他者なのである。ATフィールド絶賛展開中である。 
 
だけどいつか気付くでしょう
その背中には
遥か未来 めざすための
羽根があること
(日本版)
 
私は信じる いつの日か
君は気付くだろう その背中には
遥か未来を目指した羽を
身に着けていることを
もうほとんど差異がない。ラテンアメリカ版において「君」や「私」というそれぞれの行為主体の明示が繰り広げられているのも、これはスペイン語がそういう言語なのだからそういう事なのである。主語の省略された日本版の歌詞においても、このラテンアメリカ版における主語の振り分けがそのまま当て嵌まるであろう。 
 
窓辺からやがて飛び立つ
(日本版)
 
君の心の入り口を通って飛んでいくだろう
ラテンアメリカ版の歌詞における”La premisa”を「テーゼ」と訳してみましたが、”premisa”はどちらかというと「前提」という意味の単語で、本来は「テーゼ」ならば”tesis”という単語がある。しかしながら多くの場合において、最初に提示される命題(=テーゼ)を「前提」というのであるから、「テーゼにおける前提としての性質を有したテーゼ」として”premisa”を「テーゼ」と置き換えてみたのです。ややこしい事を申し上げましたけれども、簡単に言えば「なぜならオリジナルが『テーゼ』なんだからな!」という事です。従って厳密には「残酷な天使の(前提としての)テーゼ」という狭義性がラテンアメリカ版にはありますよ、という点にだけ一応触れておきました。
 
オリジナルにおける「窓辺」が「(君の)心の入り口」に対応しているワケだけど、一方で「『~から』飛び立つ」に対する「『~を通って』飛んでいく」という差異も見られる。この歌詞においては「窓辺=心の入り口」という特定の場所が、いわば外界とのボーダーラインとして機能していると思うのだけれど、外界へ飛び立つに当たってはその場所が「起点(=~から)」となり、そして事物の運動性としてはその場所を「経由(=~を通る)」しているだろう。
つまり日本版は「起点」としての場所性、ラテンアメリカ版は「経由点」としての場所性にフォーカスしていて、「飛ぶ」という事物の運動の連続性をどの点において捉えるかという差異が表れているのであるけれども、ところでコレ何が飛んでいくのだろうか?
ラテンアメリカ版においてその点は明白で、それは「残酷な天使のテーゼ」である。“volará(=飛んでいくだろう)”という動詞の主語は、その直前の名詞”La premisa(=前提としてのテーゼ)”に他ならないのであって、要するにテーゼが飛んでいくワケである。
「『テーゼ(=前提)』が心の入り口を通って外界へ飛んでいく」という描写は、「テーゼ(=前提)」が世界に対して発信される様子を言い表していると思えるのであって、提示されたテーゼは世界(=他者)によって吟味され、時に反証され、そしてそのぶつかり合いの中で何らかの形を形成していく。誰だって傷付きたくはないけれど、往々にしてそれが「他者と関わる」という事であり、そして「世界に生きる」という事なのである(実際にシンジ君が「世界を生きる事ができた」のかどうかは、また別の話)。だからこそこれは「残酷な天使のテーゼ(=前提)」なのかもしれないなと、この年齢になって拙者はようやく気付いたのでござるよ薫殿。個人的には、この解釈はそのまま日本版にもフィードバックしたいと思います。 
 
ほとばしる熱いパトスで
思い出を裏切るなら
(日本版)
 
たとえ生ぬるい痛みの一瞬だとしても
記憶の殿堂を裏切ったなら
「パトス」とは「快楽や苦痛を伴う一時的な感情状態」などを表すギリシャ語である。日本版におけるその「パトス」に対して、ラテンアメリカ版は「痛みの一瞬」という言葉を対応させているワケであって、要するに「パトス」の意味をより厳密に抽出した結果だと捉えられるであろう。
その「パトス=痛みの一瞬」を形容する表現に差異が見られるワケで、それは「熱い」と「生ぬるい(tibio)」という体感的な温度差として表出している。ラテンアメリカ版におけるこの差異は、「『ほとばしる熱いパトス』ほどに熱くなくても」というような、とにかく「思い出(=記憶の殿堂)を裏切ったなら」という「行為としての条件」を強調する事を意図しているのではないだろうか。
また一方で、「思い出」が「(君の)記憶の殿堂(templo de tus recuerdos)」というように格調を帯びた表現に変化している点については、エヴァンゲリオンという作品が持つ若干スノッブな雰囲気に基づいた「サービスサービスぅ!」なんじゃないですかね。すなわち「君が何を言ってるのか分からないよカヲル君」イズムのちょっとした発露なのではないかと僕は思います。 
 
この宇宙(そら)を抱いて輝く
少年よ神話になれ
(日本版)
 
この空を抱いて輝くだろう
若き救世主よ伝説になれ
「輝く」という行為が前部の「裏切るなら」という条件を受けて成立しているのであれば、ラテンアメリカ版における動詞は“resplandecerás”でなく”resplandecerías”になるべきだろうけど、ここは文章が切れてしまっているので、そうした文法的な正当性を根拠として考えるべきなのかどうかは分かりません。ただ前後の繋がりからすれば「思い出(=記憶の殿堂)を裏切った」結果として「この空を抱いて輝くだろう」事はなかなか疑いようがないので、そのように捉えればやはりこれは虚構のキャラクターに対する応援の一環であろう。
冒頭において提示された「若き救世主よ伝説になれ」という命令(=現象の肯定)に対して、「こうすれば、こうなるよ」という種々の肉付けを踏まえて、再び「(だから改めて)若き救世主よ伝説になれ」という同命令(=同現象の肯定)に回帰しているワケである。つまり「応援による虚構へのアクセス」をより強調する構造を持った歌詞であると言えるかと。
一方で日本版においては、ラテンアメリカ版と同じように碇シンジ君(=少年)を応援しつつも、同時に我々(=非限定的な何者でもない主体)自身がエヴァを観るという行為が、命令によって後押しされているようにも思えるワケである。その影響という事では無いだろうけども、結果として多くの何者でもない者達がエヴァの呪縛に囚われてしまったという事実については、今さら言及するまでもないであろう。
 
 
まとめると、ラテンアメリカ版は特定の虚構世界における固有名詞を用いることなく、元々の歌詞を特定の意味性を持つ言葉に置き換える事によって、古き良きアニソンの伝統的な視座、すなわち「虚構存在への応援」という性質の主題歌に再構築している。
一方で日本版については、その言葉の意味範囲における特定性・限定性の無さゆえに、シンクロしてしまった各人を「歌われる存在」として巻き込んでいく。そして、各種の在らざる意味内容を一生懸命考察する我々の姿が、そこにオーバーラップするのである。
 
 
今回何が辛かったって、エヴァの事を思い出すと色々な(恥ずかしい)思い出が付随的に蘇ってきてしまうのが辛かったのです。僕というかつての少年は神話にはなれずにサラリーマンになってしまったし、背中に羽根があるどころか首に頚椎症を発症しているような有様なんだけれども、それでもとにかく僕はまだ生きているのであって、だったらしっかり生きて、それから死ぬのである。まあなるべく死にたくはないのだけれど。
最後になりましたが、お読み頂いた全てのアミーゴスに、グラシアス。