スペイン版アニソン歌詞・マジンガーZ ~ラテンアメリカは水木一郎の夢を見るか?~

私、1984年に生を受けておきながら、最近ようやく知り得た事実がございまして、それは「ラテンアメリカ版におけるマジンガーZの主題歌には歌詞が無い」という事なのです。ラテンアメリカ版のOPに流れる音楽は、歌ではなくインストなのです。海外版歌詞の(逆)翻訳を趣味とするこのド腐れ機械獣からすれば、「衝撃!Z編」とはまさにこの事なのでありまして、無い知恵を絞って色々考えてはみたものの、やはり存在しない歌詞を翻訳する手段は一つも思い浮かばなかったのであります。
 
しかしながら、スペイン版においてはしっかりとスペイン語の歌詞が歌われておりますので、今回はラテンアメリカ版ではなくスペイン版を翻訳します。そしてなぜラテンアメリカ版には歌詞が無いのかについても、自分の想像の及ぶ範囲で考えてみたいと思います。
 
 
Mazinger Z
 
スペイン版
 
【歌詞原文】
Mazinger…
Planeador abajo…
 
La maldad y el terror,
Koji puede dominar.
Y con él, su robot,
¡Mazinger!
 
Mazinger es fuerte y muy bravo
es una furia!
No pueden con él,
preparado a combatir estááá!
 
Es inmortal, el robot,
siempre lucha por la paz!
Su amistad y su amor,
Koji puede controlarrr!
 
El poder, la verdad,
con Mazinger, sííííí!
 
 
【拙訳】
(兜甲児によるセリフ)
降下グライダー(パイルダー・オン
 
悪や恐怖は
甲児がこらしめるぜ
そして彼のロボット
 
マジンガーは強くて勇敢
それは怒りなのだ!
止められないのさ
戦う準備はできてるぜ!
 
不死身のロボット
いつだって平和のために戦うぜ!
その友情も愛も
甲児がコントロールできるのだ!
 
力、真実
マジンガーと一緒に、そうだ!!!
 
 
【所感】
開幕と同時に、マジンガーに対してパイルダー・オンが決まるワケだけれど、そのアクションにしっかりとセリフを加えてくるという、この真っ直ぐな姿勢が大変清々しくて素晴らしい。「パイルダー・オン」は劇中においても”Planeador abajo(降下グライダー)”と翻訳されており、オリジナルのパイルダー・オンが持つ運動的特徴を鑑みれば、これはまさにその通りとしか言いようがない表現である。
”Planeador abajo”の掛け声と共に鳴り響く勇壮で絶対的なイントロ、つまり神イントロ。そして構図はマジンガーZの頭部から斜めアングルのバストショットへと移行し、小節の頭の音と共に打ち出される"MAZINGER Z"のタイトル。完璧である。そう、最高なのである。このイントロ部分だけで、スペインにおけるマジンガーZの成功は約束されていたのだと思えてしまうのである。
 
ちなみに日本版は「マジンガーZ」のタイトルが四小節目の途中から入っていて、音楽的なシンクロはあまり考慮されていないように思えるが、ここらへんは映像と音楽それぞれの製作事情とかまあ色々あったのかもしれない。参考までに日本版のOPも貼っておきますね。
 
日本版

www.youtube.com

 
 
それでは歌詞を見比べていきます。
 
空にそびえる
くろがねの城
(日本版)
 
悪や恐怖は
甲児がこらしめるぜ
そして彼のロボット
(スペイン版) 
日本版は「スーパーロボットであるマジンガーZ」という本質を、「空にそびえるくろがねの城」という表現によって言い表しているワケだけれど、その素晴らしい比喩表現の方を倒置法的に先に表出させる事によって、「スーパーロボット」および「マジンガーZ」という虚構の固有名詞が強烈なイメージを獲得して立ち現れている。
それにしても「空にそびえるくろがねの城」という比喩は途轍もなく秀逸で、この言葉によって「スーパーロボットマジンガーZ」に只ならぬ魅力が注ぎ込まれているのである。アニソンにおける歌い出しのフレーズとして、信じられない程に完成されていると思う。もうハッキリ言うけれども、あしゅら男爵もDr.ヘルも、この歌い出しの時点で既に詰んでいるのである。
 
一方でスペイン版は、マジンガーZという作品の持つ勧善懲悪的な性質を早速打ち出すような歌い出しである。その中で僕が特に注目したいのは、日本版の歌詞では言及されることのないパイロットの存在、つまり「兜甲児」についての描写によって歌詞が開始されている点である。「マジンガーZさえあれば、人は神にも悪魔にもなれる」とは、義務教育の過程で誰もが学ぶ真理であるが、要するにマジンガーをどう使うかはパイロット次第、力をどう使うかは人間次第だという事である。「悪や恐怖をこらしめる」という行為は、何よりもまず兜甲児という主体の意志によって発生する。スペイン版はそうした「行為主体の本質と、その為の力としてのマジンガーZという関係性」を提示しているのではないか。
  
無敵の力は
ぼくらのために
正義の心を
(日本版)
 
マジンガーは強くて勇敢
それは怒りなのだ!
止められないのさ
戦う準備はできてるぜ!
(スペイン版) 
日本版の歌詞においては、マジンガーZという存在を「空にそびえるくろがねの城」と言い表していたワケなんだけれど、ここでスペイン版もマジンガーZの性質に言及しているのであって、それ(=マジンガー)は「怒り」なのだという。「空にそびえるくろがねの城」が事物的な崇高性の表象であるとすれば、「怒り」とはまさに感情の、さらに言えば激情の表象である。つまりマジンガーZという存在は、人の激情が具現化したものであり、やはり「行為主体とその力」という関係性に立脚した描写が連続しているのだと言えよう。
  
とばせ鉄拳!
今だ だすんだ
ブレストファイアー
(日本版)
 
不死身のロボット
いつだって平和のために戦うぜ!
その友情も愛も
甲児がコントロールできるのだ!
(スペイン版) 
日本版はマジンガーZにおける虚構性の象徴、つまり様々な固有名詞の表出と、それらに掛かる勇ましい言い回しによって、視聴者をフィクションの世界へと誘う歌詞構造が継続している。このパラグラフにおいて、そうした視座は「マジンガーZに対する応援」として遂にその本質を露呈し、「応援による虚構へのアクセス」という伝統的なアニソンの一つの類型に帰結しているワケである。
 
スペイン版については、「行為主体とその力」という関係性の極めて露骨な表明が為されており、「その(=マジンガーの)友情も愛も甲児がコントロールできるのだ」という。マジンガーZという力(=怒り)は、甲児によってそのすべてをコントロールされる。つまり正義を為すための力については、行為主体である甲児にその発動および運用の全権が託されているという図式を、ここでより一層強調しているのだと思える。
  
マジンゴー!マジンゴー!
(日本版)
 
力、真実
マジンガーと一緒に、そうだ!!!
(スペイン版) 
「力」そして「真実」。それらはマジンガーと結合する事で強烈に肯定されている。「力」という言葉はマジンガーZという存在の表象として現れているのだろうと思うが、「真実」とはなんだろうか。単純にポジティブなイメージを持つ言葉を重ねただけだろうか。これについては、実はちょっとばかり思うところがあって、後述するラテンアメリカ版についての考察の中で言及したいと思います。
 
 
まとめると、日本版は「マジンガーZ」に対する描写が一貫して展開されながら、その中で種々の固有名詞が次第に「応援」の言葉と結び付く事で、主題歌は「応援による虚構へのアクセス」を促進する役割を担うまでに至っている。
 
一方のスペイン版では、マジンガーは「怒り」という感情(激情)の表象として立ち表れていて、そこには「正義の存在」としてのマジンガーではなく、「正義を行う主体の力(=怒り)」としてのマジンガーが歌われているのだと思える。つまり正義はパイロット(=行為主体)の兜甲児にある。これはまさに「マジンガーZさえあれば、人は神にも悪魔にもなれる」というヤツなのであって、真にフォーカスされるのは個人の人間なのである。スペイン版は、そうした視座が存分に打ち出された歌詞なのだと言えよう。
 
 
なぜラテンアメリカは歌詞が無いのか
 
まあ、まずはこちらをご覧ください。
 
 
お分かり頂けただろうか?(ほん呪風)
本当に歌詞が無いワケなんだけど、じゃあなぜ無いのかと言うと、残念ながら、結論を言えば分からないスペイン語で色々と思い付く範囲でググってみたりしたんだけど、それでも「やっぱり歌詞は無い」という事実が改めて突き付けられるのみで、「なぜ無いのか」について言及する記事やコメントを見つけ出す事は出来なかったのである。
 
一体なぜ歌詞が無いのだろうか。確かにLAMP EYEの『証言』CD版では、YOU THE ROCKによるマジンガーZの歌詞が無くなっていたという現象が起きたワケだけれど、しかしながらこの件に関して言えば、それとは異なる原因があるのではないかと思われる。
 
分からなければ分からない程に答えを追い求めてしまうのであって、ここ最近は四六時中その理由を考えており、それはもうハッキリと仕事に支障をきたしている。とは言え、僕も一応は社会人なのであって、そろそろ一旦ケジメをつけて真面目に働かなければならないという気がしてきたのである。従って、取り敢えず僕の考えてみた理由を一度まとめる事によって、それが自分の中で一つの区切りとなるように願いつつ、以下にその内容を書いてみたいと思います。
 
各国の放送開始時期などの情報については、いくつかのスペイン語サイトを参照しています。つまり以下の内容は「ネットの記事に基づく推測」という部分がありますので、それなりに寛容の心をパイルダー・オンして頂ければとは存じますが、もし正確な情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ご教示頂けると大変有り難いです。
 
 
まず、スペイン語圏におけるこの作品の放送開始時期を簡単にまとめてみたい。
スペインでマジンガーZが放送されたのは1978年3月4日という事である。スペイン語吹き替えはバルセロナのSonygraf社によって行われており、この吹き替えは現在では”versión de Sonygraf(Sonygraf版)”として認知されている。
一方で、スペインでの放送開始後、ラテンアメリカにおいて最初にマジンガーZが放送された国はチリである。1980年(または1979年?)にチリ、そして同年にパラグアイベネズエラと続き、1981年にアルゼンチン、1983年にペルー、そして1986年にメキシコへと広がっている。また年代は分からないが、コロンビア、エクアドル、および中米のコスタリカホンジュラスなどでもマジンガーZは放送されている。これらラテンアメリカにおけるスペイン語吹き替えはCadicy International社によるもので、こちらは”versión de Cadicy International(Cadicy版)”として知られている。
ラテンアメリカにおいては、後にESM International社による吹き替え”versión de ESM International(ESM版)”が登場し、再放送などにおいてはCadicy版に代わってESM版が放送されていたりするようだが、明確な時期は不明である。
 
上記の内容はこれらのサイトの情報を簡易的にまとめたものです。
 
 
そしてこちらのサイトによると、そもそも東映アニメーションによる「インターナショナル版」のOP、EDには元々歌詞が無く、それぞれの国がそれぞれの言葉を入れられるようになっていたらしい。つまり歌詞を付ける事も付けない事も可能だったようであるが、結果として(スペイン語圏においては)スペインだけが歌詞を入れたという事である。 

Versiones internacionales de Mazinger Z

 
 
要するにラテンアメリカ版(厳密にはCadicy版)は敢えて歌詞を付けなかったのであって、ここでどうしても気になってしまうのは、南米における初のマジンガーZの放送国がチリだったという事実である。1980年のチリは、ピノチェトによる独裁政権の真っ只中にあったワケで、この独裁政権という体制は往々にしてアレをやるでしょう。アレですよ。そう、検閲というヤツを。
つまりそうした独裁政権による検閲を回避するための手段として、敢えて歌詞を付けなかった可能性があったりはしないだろうかと。同1980年にマジンガーZを放送したパラグアイも、当時はストロエスネルによる独裁政権下にあったワケだし、1981年のアルゼンチンにも軍事独裁体制が敷かれていた。
 
たかがアニソンの歌詞で、それもパイルダー・オンとかロケットパンチとかブレストファイヤーとか叫んでいるマジンガーZの歌詞で、一体どこの検閲を意識するのだろうかと思えるかもしれない。またこのような勧善懲悪の作品は、使い方次第では独裁政権によるプロパガンダとして有効な一面もありそうではある。
しかし、ここでスペイン版(Sonygraf版)を思い出して欲しい。明確なる悪への対峙は、甲児という個人の主体がその行為の根源となるのであって、マジンガーZはあくまでそのための力であった。「力」も「怒り」も個人に対して与えられ、その発動も運用もあくまで行為主体に託されていたワケである。つまりスペイン版の歌詞においては、個人という行為主体がクローズアップされていたのであって、視聴者は各々の願望を甲児に対して投影するのではないだろうか。そして、マジンガーZと結託する事で強烈に肯定される「真実」。独裁政権下においては、「力」を持つのは視聴者でなく独裁者であるし、またその体制によって行われる種々の表現規制は、幾度となく「真実」を闇に葬ってきたのであろう。つまりスペイン版の歌詞には、独裁政権の終焉による時代的雰囲気の変容を、どことなく匂わせるようなニュアンスを感じてしまうのである。
 
こうしたイメージが、1976年以降スアレス政権の下で民主化を果たしたスペインにおいて歌われていたという事に、何らかの意味を感じたりはしないだろうか。つまり「民主化を果たしたスペイン」で歌われたこの主題歌は、「勧善懲悪における善悪の方向付けとしての前例」といった文脈で捉えられたりはしなかったのだろうか。
 
こんな感じの時代背景があって、その中で南米諸国の軍事独裁政権による検閲を意識した結果として、歌詞を付けないという選択が為された、というような事を一つの可能性として考えてみたのです。
それならば本編自体が放送できない可能性もありそうではあるが、(特にこの当時の)アニメ主題歌というのは、往々にして作品のエッセンスを歌詞に凝縮するものであるのだから、そうした言葉と音楽が結託した「歌」という表現の持つ影響力は、決して馬鹿にできるものではないと思う。従って止むを得ず歌詞を放棄し、検閲を通りやすくしたのだというような可能性を考えてみたのである。繰り返しますがあくまで可能性として。
 
 
とか何とか書いてみたんだけれども、実はただ単に予算的な都合であったのだとか、あるいは単純にインストの方がカッケーと判断されたのであったのだとか、まあこの他にも色々な可能性が考えられるワケである。ウィトゲンシュタイン曰く「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」けれども、この件はウィトゲンシュタイン的な「語りえぬ」性質のものでは全然ないと思われますので、また何か分かれば積極的に加筆修正していきたいと思います。
ともかく、これで個人的にはようやくひと段落だゼェーット!!!