ラ米アニソン歌詞・学級王ヤマザキ

直感でブログを始めようと思った(絲山秋子風)。
 
というワケではなくて、昔自分がやっていた事をもう一度仕切り直して再開したいと思った。カッコ良く言えばリブートである。だけどこんな一介のサラリーマンがリブートなどと申し上げたところで世界に対して恥ずかしいだけなので、敢えて言おう。僕はユルくやり直したいだけであると。
 
何をやり直したいのかと言うと、外国語に翻訳された日本のアニソン歌詞の逆翻訳である。一度外国語に翻訳されたものを、わざわざ再び日本語に戻そうというワケである。僕がそんな非生産的な営みを過去に実施していて、さらにそれを改めてやり直すという愚にも付かない行動の是非なんて、それを問いただす行為自体が時間の無駄になるであろうからその辺の諸々は思い切って捨象していきましょう。
 
ところで、そうした海外のアニソンには大きく二つのパターンがあって、
A. 同様の楽曲を用いて日本のオリジナル歌詞を比較的忠実に翻訳したもの
B. 楽曲は同様だが日本のオリジナル歌詞を度外視して歌詞を構築しているもの
大雑把にはこんな感じに分類できるのだけれど、重要なのはどちらのパターンであろうが、異なる言語同士は1:1の関係性を構築しようがないので、オリジナルに対して何らかの差異が必ず発生するという事実である。その差異は、オリジナルが持つ性質の欠如として巻き起こったり、またはオリジナルが持たない性質への余剰として出現するかもしれない。いずれにしても、そうした差異に眼差しを向ける事で、その言語圏における独特な作品の捉え方が見えてくるのではないだろうか。たとえ見えてこなかったとしても、その差異に想いを巡らせてキャッキャしたりアヘアヘしたりする事は出来るのではないだろうか。 このような期待が「アニソン歌詞の逆翻訳」というどーでもいい営みのモチベーションとなっている。本当に日本は平和である。
 
それではどの言語におけるアニソン歌詞を逆翻訳するべきだろうか。完全に恣意的な選択である事は重々承知の上で、僕はスペイン語圏におけるそれを対象としたいのである。一応それなりの理由を挙げてみると、
1. 翻訳されたアニソンの量が他の言語に対して比較的豊富である
2. 同じスペイン語圏でも、一つの作品に対してスペイン版/ラテンアメリカ版という二種類のバージョンが存在する場合があり、外国語翻訳における認識的差異をより多角的に検討する事ができる
3. 日本語に対して発音における類似性が極めて高いため、聴いていて単純に気持ちE
こんな感じに考え付く事は出来るが、一番の理由は僕自身がスペイン語をかじっていたからである。本当に短期間ではあるがメキシコに居た事もあるため、基本的にはラテンアメリカ版・スペイン語のアニソン歌詞に対してアプローチしていきたいと思う。ところで、これまでの文章はそのほとんどを、こんな暇つぶし以下の行為を三十歳を過ぎてわざわざやり直すこの自分自身に向けて書いている。
 
それでは早速やってみたいと思うのだけれど、 最初にアニソンの動画を貼り、翻訳された歌詞の原文、そして日本語への拙訳を順番に掲載した上で、所感として思うところを書き連ねる方式で進めていきたいと思う。まずは最初の一発目なので、海外版アニソンとして僕が一番好きなヤツを。
 
 
Yamazaki el Rey de la Clase
ラテンアメリカでの放送国: アルゼンチン、チリ、コロンビア、ベネズエラ
 
 
【歌詞原文】
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki no tiene igual 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejooooorrrrr. 
 
Tú también lo puedes ver 
Su planeta fabuloso es 
Sueños también cumplirás 
Y la tierra tú conquistaras 
 
Si quieres lo conseguirás con Yamazaki 
Lo lograras 
Tu anhelo se hará realidad 
Conseguir la felicidad. 
 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki no tiene igual 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejor, 
Yamazaki es el mejooooorrrrr.
 
 
【拙訳】
ヤマザキに匹敵するものは何もない
 
汝にも見えるであろう
素晴らしいヤマザキの星が
それは汝の実現する夢でもあり
そして汝の手に入れる大地でもある
 
ヤマザキと共に達成したいと望むならば
それは成し遂げられるであろう
汝の野望は現実のものとなり
幸福を獲得するであろう
 
ヤマザキに匹敵するものは何もない
 
 
【所感】
ヤマザキに対する揺るぎない信仰が勇壮な旋律と調和する事で、我々に至福の安心感をもたらしてくれる。
 
ヤマザキの絶対性を信じる事によって汝(=視聴者)の願望は成就し、それは幸福の獲得へと帰結する。ここで「ヤマザキの星」は「汝(=視聴者)の夢」と同期されていて、「汝(=視聴者)の願望」とは「素晴らしいヤマザキの星を手中に収める事」と見做されている。つまり、虚構への同化を超越して、虚構を征服する事が暗黙の目的として設定されているのである。
そして「ヤマザキ」は、そうした願望の達成を導く存在であるという。ヤマザキは理想の世界に存在する事で我々をその内部に取り込み、そして究極的にはその世界を我々に明け渡すのである。この歌詞において、「ヤマザキに対して代入可能な言葉があるとすれば、それは限り無く神に近い性質を持った存在を示すものになるであろう。
 
ここで、オリジナルの日本語版歌詞と比較してみたい。
たとえば、
キミにも見える ヤマザキの星
ゆくぞヤマザキ おのれのために
夢はでかいぜ 世界征服
めざせヤマザキ おのれのために
そして、
あの日誓った 約束の地へ
進めヤマザキ おのれのために
たとえ嵐が 吹き荒れるとも
めざせヤマザキ おのれのために
このようにオリジナルは「ヤマザキを我々と同等の人間存在として扱っており、歌詞としては一他者である「ヤマザキを客観的に応援する姿勢が取られている。これは伝統的なアニソンの系譜における、一つの潮流を受け継いだ視座として捉えられると思う。要するに「悪を滅ぼせゲッタービーム」だとか、「正義の怒りをぶつけろガンダム」だとかの歌詞なんかと同様に、我々は虚構の世界におけるキャラクターの活躍を願うのであって、これらの歌詞はその点において機能している。言葉はそうした想いを力強くトレースし、そして歌という表現形式によってリズムや音階を獲得する事で、キャラクターは我々によって「応援される対象」としての性質をより一層強め、そして我々は「応援する主体」として虚構の世界へ参加するワケである。
 
しかしながらこのラテンアメリカ版の歌詞は、我々が「応援」という行為を通じて虚構の世界にアクセスするという、オリジナルの歌詞が持つ伝統的な構造を崩壊させている。この歌詞は「ヤマザキというキャラクターの神的な絶対性によって再構築されており、そこでは「応援」が「信仰」へと変容しているのである。「信仰」による虚構へのアクセス。この歌詞は我々のあらゆる体験を超越し、我々にヤマザキを信じさせ、心をヤマザキに委ねる事の素晴らしさを説いているのである。キルケゴールの言う「信仰の飛躍」とはまさにこの事であって、虚構の世界へと没入するためのアプローチとして、これほどまでに強烈な方法が他にあるだろうか。少し冷静に考えてみたら、なんかもうちょっとヤバいんじゃないか。だってヤマザキって本当は「オッパイよー」とか「パイなら」とか言ってるうんこちんちん野郎なんだぜ……!
 
だけど、僕はその点にこそラテンアメリカ版の視座が機能していると思っている。うんこちんちん野郎に対して逆説的に過剰な神性を担わせる言葉の数々が、元ネタであるGo Westの勇壮な旋律に溶け込む事により、さらなる過剰性を獲得して立ち現れているのである。そもそもこの過剰性は「神」と「うんこちんちん」との差異に起源を持つのであって、そうした確固たる根拠をベースとしながら、言葉と音楽によって過剰性がドライブしているのである。
 
さて、この文脈においては、最早疑いの余地は微塵もないのだけれど、過剰性=バカである。つまりバカの音楽的インフレーションを意図したこの歌詞は、学級王ヤマザキの織り成すうんこちんちんの宇宙に対して、その限り無い親和性によって強烈なオーバーラップを繰り広げているのである。そしてこの主題歌を口ずさむ者達によって現実的に共有され、観念が連鎖していく事により、うんこちんちんの宇宙は無限に膨張していく可能性を秘めているのではないか。
 
ヤマザキ」という対象に対する深遠な理解によって、こうした歌詞の構築が可能となっているのであろう事は想像に難くない。そして僕は思うのだけれど、そのように深遠な理解の事を、人は愛と呼ぶのではなかったっけ。地球の裏側だろうが何だろうが、彼らはやるのだ。パイあるかぎり。