安室奈美恵 is my Sunshine

「失って初めて気付く大切さ」みたいな事はよく聞くけれども、本当にその通りである。我々は太陽の存在によってこの地球上に生存しているけれども、愚かな僕がその重要性を真に感受する事が出来るのは、恐らくその存在が消失した時であろう。
 
いま、一つの太陽がその運動を停止しようとしている。天の川銀河アンドロメダ銀河の衝突に先駆けること40億年、2018年9月18日に引退する事を決定した、安室奈美恵という太陽である。
僕は、一人の人間が成し遂げる偉業というものを――それは瞬間的な業績や現象も然ることながら、持続的なスタイルやアティテュード、そして信念としての偉業というものを、安室奈美恵という存在によって真に知覚するのである。
 
確かにアムラー現象はあった。小室サウンドもあった。僕は小室プロデュース時代の楽曲も大好きだけれども、恐らく安室奈美恵という人にとっては、それらの現象も楽曲も、安室奈美恵というアーティストの表現型における通過点に過ぎないのだという事をこそ、この人は証明してきたではないか。
 
我々は簡単に時間が止まるのである。学生の内はまだしも、会社にでも入って社会人として仕事中心の生活をしていればなおさら、身の回りの事柄と、音楽などの人生を豊かに彩る余剰とは、意識によるつなぎ止めがなければ、その乖離は何かと進みがちである。だから懐メロ(!)的な音楽を聴いて「なつかしー!」なんて思ったりして、思い出としての定点的な過去が現在に流入する感慨を味わったりするワケだけれども、しかしながらこの安室奈美恵という人は、常に時計の針を進めてきた人物なのである。
 
ファッションとしてのアムラーは懐かしい。楽曲としての小室サウンドも懐かしい。しかし安室奈美恵というアーティストは、決して「なつかしー!」では終わらない存在であり、定点的な現象を超えて、常に現在的な彼女のスタイルを提示し続けてきた、まさに真のアーティストなのだと思う。安室奈美恵に対する認識が「懐かしい」で止まっている人にこそ、僕はそれ(=懐かしい)以降の彼女の楽曲を聴いてみて欲しいと思う。この人は、本当に駆け抜けているから。音楽で自分を表現している人だから。安室奈美恵の表現においては、時間が常に進んでいるのだから。パブロ・ネルーダも言っているではないか。「われわれの仕事のうちのただ一つの仕事のこうした静止的成功には、それに対する喜びがある。これは健全で生物学的でさえある感情だ。読者のこうした押しつけは詩人をただ一回きりのひとときに固定しようとする。だが、実際には、創作とは不断の車輪のようなもので、たぶん新鮮さと自然さはより少ないにしても、より大きな習練と意識をもって、回転しているのだ」と。
 
僕はライブに行った事はないけれども、安室奈美恵の引退には、もうどうしようもなく言葉にならない思いが胸に渦巻いているんですよ渦巻かせて下さいよ。どこかのラジオで言っていた「(安室奈美恵の引退について)言わんでいい人まで言ってる」とかね、その「言わんでいい人」ってのを連れてきて下さいよと。安室奈美恵の果たした偉業――瞬間的および持続的な偉業――を鑑みればですよ、誰もが安室奈美恵の引退を悲しむ権利があると僕は思いますがね。すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利と、安室奈美恵の引退を悲しむ権利を有すると僕は思いますがね。それだけの事を、この人は瞬間的に成し遂げ、そして持続的に進行させてきたのだから。
 
僕はここ一週間は仕事で中国にいて、雲南省やら北京やらを移動していたのだけれども、出張前にDJ機材を引っ張り出して、徹夜で録音した安室奈美恵MIX(tentative)を毎晩聴いては号泣していた。各都市のホテルで声を上げて泣いていた。OETSUである。アーティストも一人の人間なのであるとすれば、その一人の人間が年月をかけて体現してきた表現(=音楽!)の系譜に、心を激しく揺さぶられずにはいられなかったのである。
 
アーティストがなぜ僕の人生に必要なのかと言えば、彼らは僕のクソみたいな人生をその実利性の余剰として彩りながらも、しかし同時に「人生を生きること」それ自体としての根源的なモチベーションを授けてくれるからである。音楽も映画も本もマンガもアレもコレも、僕が本当に好きなものは「(色々な意味で)生きてて良かった/頑張って生きれそう」と思わせてくれるものである。安室奈美恵というアーティストの軌跡は、まさにそうした感慨を思い起こさせてくれるのである。
 
当時の僕に言いたい。TLCがフジテレビの『HEY!HEY!HEY!』に出演して"No Scrubs"を披露し、Manhattan Recordsのカタログで「口パクで残念でしたねー!」と評されていたのは、確か僕が中学三年生の時だったと思う。あの頃ブラック・ミュージックにハマりだした僕が、"Diggin' On You"などと共に聴きまくっていた名曲"Waterfalls"に、違う感覚で聴きまくっていた安室奈美恵がコラボレーションを果たすなんて、当時の僕には想像すらできなかったはずである。しかし、安室奈美恵からすれば、恐らくその当時から、目指すべきスタイルの一つはその点にあったのであろう。当時我々が当たり前のように聴いていた彼女の音楽は、彼女のスタイルは、実は瞬間的な時代性を超越し、根本的な音楽/スタイルとしての揺るぎないエッセンスを内包していたのだと、今となっては思うのである。身も蓋もない表現をしますけれども、この人はめちゃくちゃカッコイイ人だよ!!!
 
安室奈美恵がその表現によって進めてきた時計の針の動きは、この取るに足らない存在である僕に対しても、このサラリーマンをしていて何かと時間が止まりがちな僕に対しても、「時は進んでいるんだよ」という事を教えてくれるのである。この圧倒的に絶大な知名度におけるレベルで、そうした時間的/表現的な進行性を極めて高いクオリティで知覚させれくれる人など、そうそういないであろうと僕は思う。
 
「何年も君を見てきた。どれほどの奇跡を見てきた」
――それこそ小学生の時から、僕は安室奈美恵を見てきたのである。
 
「ただ過ぎて行くよで きっと身について行くもの」
――安室奈美恵の歌が、身に、心に、どうしようもなく染み付いてきたのである。
 
いまようやく、日本に帰国し、自宅に帰宅し、俺の考えたさいきょうのNamie Amuro Mixが完成したのである。出張先で練り上げたMIXのカンペを凝視しながら。雲南省で思いっ切り食らった風邪を引きずりながら、鼻水をすすりながら時に激しく咳き込みながら。そして途中ミスったつなぎをAudacityで修正しながら。
全21曲、70分くらい。"In The Spotlight(Tokyo)"で幕を開け、新も旧も縦断しながら、『駅馬車』ばりの二段構えなクライマックスには、"YOU ARE THE ONE"と"Sweet 19 Blues"が待ち構えているのである。
 
今僕はその"Sweet 19 Blues"を聴きながら号泣しているので、明日会社を休む理由としては、社会人として極めて申し分ないであろう。アイキャッチ画像のピンバッジはヤフオクで落としましたし、咳き込みながらもMIX完成の祝杯を過剰気味に上げてしまいましたし。
とにかく、僕はまだまだ安室奈美恵の事を考え続けるし、これからも彼女の楽曲を聴き続けるんだぜanyway! YES!! Go Paradise Train!! 幾千夏が来ても!!!!!