ラ米アニソン歌詞・地獄先生ぬ~べ~

ぬ~べ~の主題歌『バリバリ最強No.1』は、楽曲自体としては『地獄先生ぬ~べ~』という作品世界における特定の要素に関わりを持つものではなくて、要するにアニメ作品の為に作られたアニソンではないワケです。それはたとえば『Get Wild』や『そばかす』なんかと同様のいわゆる「タイアップ曲」なんだけど、それでも主題歌として作品に組み込まれる事で、楽曲それ自体に付加価値としての作品的イメージがプラスされる事はあると思う。
 
今回のようなタイアップ曲にしても、ラテンアメリカに対しては「『地獄先生ぬ~べ~』の主題歌である」という前提で輸出されているワケなので、予めそれなりにアニメ作品としての性質が付加されたものとして受け止められているのではないかと思う。つまりスペイン語に翻訳するに当たって、作品的要素の存在しない歌詞に対し、「ぬ~べ~」という世界のニュアンスを織り込むような試みが為されているのではないだろうかと僕は思うのであります。
 
実は「ぬ~べ~」のオープニングでは、ボーカルが歌い出す前に物語背景を伝えるナレーションが挿入されている。この部分のみではあるけれども、作品的要素に触れた言葉が歌の前提として存在しているので、アニソンとして歌詞を翻訳する最低限のお膳立ては提供されていると思う。従って、たとえタイアップ曲であっても、オリジナルとの差異には「ぬ~べ~」という作品に対する何らかの言語的営みが表れているのではないか。僕はそんな期待をもとにこの歌詞を見ていきたいと思うんだよ☆イエイ!
 
 
地獄先生ぬ~べ~
Nube, el maestro del infierno
ラテンアメリカでの放送国: メキシコ、チリ
 
【歌詞原文】
"En este mundo,
hay muchos habitantes invisibles de la oscuridad,
en ocasiones ellos sacan sus colmillos
y viene atacarlos a ustedes.
Él será, el mensajero de la justicia
que llegó desde el fondo del infierno
para protegerlos a todos ustedes".
 
Muchas cosas tienes que aprender,
convertirte en invencible ser.
Sopla el viento en tu contra, has de seguir
con valor y una gran tenacidad.
 
Al que es débil debes proteger,
muchos hay, comprensivo serás,
fortaleza inmensa mostrarás,
voluntad de acero tú tendrás.
 
Ha llegado al mundo el ser
que a todos ha de sorprender,
día maravilloso es el que todos viven hoy.
 
La espera termina
porque el nuevo amanecer llegó.
El número uno seremos sin discusión
 
¡Libertad!,
nuevo ser.
 
El número uno seremos sin discusión.
¡Ya verás!
 
 
【拙訳】
(ナレーション)
「この世界には
目に見えない暗黒の住人がたくさんいる
時として彼らはその牙を剥き
君たちに襲いかかって来る
君たちみんなを守るため
地獄の底からやって来た彼は
正義の使者となるであろう」
 
君は多くの事を学ばなければならない
無敵の存在にならなければならない
向かい風は吹く
(でも)勇気と粘り強さを持って続けていかなければならない
 
君は思いやりある人物となるだろう
無限の強さを示すだろう
鋼の意志を持つだろう
君が守るべきは多くの弱き者たちだ
 
誰もが驚く世界にやって来た
素晴らしい日とはみんなが生きる今日のことだ
待つのはおしまい
新しい夜明けが来たから
文句なしに僕らがナンバーワンとなるのだ
 
自由!
新しい存在
 
文句なしに僕らがナンバーワンになる
きっと分かるよ!
 
 
【所感】
冒頭のナレーション部分は日本語版をほぼ忠実にトレースしているけど、オリジナルとの唯一の差異は最後の部分に確認できる。
彼は そんなヤツらから君たちを守るため
地獄の底からやって来た正義の使者
・・・・・・なのかもしれない
(日本版)
 
君たちみんなを守るため
地獄の底からやって来た彼は
正義の使者となるであろう
  オリジナルでは「ぬ~べ~は正義の使者なのかもしれない」という推量で濁しているところを、ラテンアメリカ版においては未来形が用いられていて、「ぬ~べ~は正義の使者となるであろう」と、断定には至らないもののかなりの確率でそれが起こる、主観的判断に基づいてそれを確信しているという表現に変化している。ここで僕としては、それが「なぜ変化したのか」よりも、「そもそもなぜオリジナルは推量によってぼかしているのか」という事を考えたい。
 
改めて記憶を辿ってみれば、「あれ?ぬ~べ~ってフツーに正義の使者と言っちゃってもいいんじゃね?」と思ったのだけれど、このナレーションは「正義の使者」というキャラクター的性質を確定させない事によって、ぬ~べ~の成長する余地を創出しているのではないだろうか。基本的には一話完結の構造を持つ作品に対して、「主人公である『ぬ~べ~』は成長によって、真の『正義の使者』という性質を獲得する、これはその物語である」というような、物語的連続性を示唆しているのではないだろうか。すると、「ぬ~べ~がその性質を獲得する」事は、現在ではなく未来に起こる現象である。ラテンアメリカ版が未来形という文法を用いて変化させたかに見えた表現は、実はその本質を的確に抽出したものだったのだと思えてくるワケである。
 
次に、サビに対するメロの部分なんだけど、ここからは主体についての差異が現れてくる。 
この世はわからない
ことがたくさんある
どんな風が吹いても
負けない人になろう
(日本版)
 
君は多くの事を学ばなければならない
無敵の存在にならなければならない
向かい風は吹く
(でも)勇気と粘り強さを持って続けていかなければならない
もう一つ続けて。 
それでも弱い奴
必ずいるもんだ
守ってあげましょう
それが強さなんだ
(日本版)
 
君は思いやりある人物となるだろう
無限の強さを示すだろう
鋼の意志を持つだろう
君が守るべきは多くの弱き者たちだ
日本版の特徴としては、「この世には分からない事がたくさんある/弱い奴が必ずいる」という世界の普遍的な性質に対し、「負けない人になろう/守ってあげましょう」という行為としての提言が対置されている。そしてその提言は「Let's~」というような呼び掛けとしての性質を孕んでいて、行為の主体は恐らく「俺たち」という複数性を有しているのだと思われる。要約すれば、「世界はこんな感じなんだけど、俺たちはこうしようぜ」という内容が歌われているワケである。
一方でラテンアメリカ版においては、世界の性質についての言及は欠落しており、「君」という主体が担うべき役割とそれに伴う諸性質、そしてそれを獲得するための心構え的な方法論が示されている。まず、「なぜ世界の性質が言及されないのか」という、その理由は結構明白だと僕は思っていて、それは既にナレーション部分が実施しているからであろう。日本版は恐らく、「まず初めに楽曲があって、その後にアニメ作品としてのナレーションを追加している」のだろうけど、ラテンアメリカ版においては「楽曲とナレーションが同時的に融合している」状態で主題歌が輸入されているのであろうから、歌詞におけるこのような差異は起こるべくして起こるのだろうと思う。それはとても自然な事。ナチュラル&ピース☆
 
従って考えるべきは、世界に対して行為する主体が「俺たち」でなく「君」に集約されている点であろう。一体この「君」とは誰を指しているのだろうか。作品の主人公である「ぬ~べ~」だろうか。ナレーションにおいて、「ぬ~べ~」は「彼(Él)」という代名詞によって指示されていたけれども、その立場はこの女性ボーカルの歌うメインの歌詞部分とは切り離せるものだろう。さらには「ぬ~べ~の未来に獲得する性質(=ぬ~べ~の成長)」というようなナレーションで示唆された物語的余地を考えてみると、ここでは「成長のための方法と、それによって獲得する性質」が示されているのだから、やはりこの主体(=君)は「ぬ~べ~」を指すのだと考える事が自然ではないかと思う。
 
次はサビ部分を抜き出してみたいと思います。 
今日から一番たくましいのだ
お待たせしましたすごい奴
今日から一番カッコいいのだ
バリバリ最強No.1
(日本版)
 
誰もが驚く世界にやって来た
素晴らしい日とはみんなが生きる今日のことだ
待つのはおしまい
新しい夜明けが来たから
文句なしに僕らがナンバーワンになるのだ
日本版における「今日から一番たくましい/カッコいい」という歌詞は、「一番たくましい/カッコいい」という性質が今日から開始される事を意味していて、つまり「今日」という瞬間が一つの定点的なターニング・ポイントとして設定されている。
それに対してラテンアメリカ版であるが、「誰もが驚く世界にやって来た」は現在完了(Ha llegado)によって表現されていて、「誰もが驚く世界」に到達した状態が過去から継続している状態を表している。そしてその時間的連続性の中で「みんなが生きる『今日』が素晴らしい」と歌っているワケであって、これは恐らく、「明日」が「今日」になればその「今日」もまた素晴らしいのである。「今日」は何度でもやって来るし、現在完了は未来の「今日」によって無限にアップデートされる。まあオリジナルで歌われている「今日」だって特定の日付を指しているワケではなくて、例えば「第一回目の放送が開始された1996年4月13日から一番たくましいのだ/カッコいいのだ」という事ではないのであって、その「今日」はある意味どこまでも更新されていくものではあるんだけれども、そうした時間的連続性をラテンアメリカ版は上手く表現しているというワケである。
 
まあそれはそれとして、このサビ部分において注目すべきポイントは、「ナンバーワンになる」主体が「僕ら」だと明言されている点であろう。厳密に言えば"seremos"という未来形の動詞によって一人称複数の主語が暗に表出しているのである。
メロ部分においては、「君(=ぬ~べ~)」に対する様々な要請と、その結果としての「君(=ぬ~べ~)」の役割が提示されていたワケなんだけど、最終的に「ナンバーワン」になるのは「僕ら」なのだという。つまりこの箇所においては、「君(=ぬ~べ~)」に対して「私」という主体が追加され、「僕ら」という主語を形成しているのである。KONISHIKI風に言えば「IとYOUでWE」というヤツである(ネタが古くてサーセンwwwwwww)。
 
「君」がぬ~べ~ならば、「私」は私、つまり視聴者であろう。この歌詞によれば、ぬ~べ~の成長によって将来的に我々はナンバーワンになるのである。不断の努力によってぬ~べ~は真なる性質を獲得し、そしてそれを見守る私達は未来において共にナンバーワンになるのである。それでは私達がぬ~べ~の頑張りに対してすべきことは何だろうかと考えると、それは「ぬ~べ~を応援する事」であろう。ここでラテンアメリカ版の本質が見えてくるワケなんだけど、世界に対して行為する主体を「君(=ぬ~べ~)」へと集約し、結果として「ナンバーワン」は私達と共有されるのだと宣言する事によって、この歌詞はオリジナルのいわゆる「タイアップ曲」に対し、「『ぬ~べ~』への応援歌」という性質を付加しているのである!見事だと思う。僕はこの翻訳に鬼の手を100本進呈したい。
 
続きまして、 
なるほど
ホント
(日本版)
 
自由!
新しい存在
オリジナルは何らかの事象を肯定する単語を重ねているが、とにかく意味内容として「肯定」という概念を表象する事がポイントなのではないかと。根拠は特にない。
それに対してラテンアメリカ版の「自由!」および「新しい存在(英語で言えばNew-being)」という単語がなぜ現出しているのかというと、なんか「ポジティブ」なイメージを導くために語呂とリズムのふるいに掛けて類義性を持つ言葉を選択したのではないかと。根拠は特にない。
無い頭を使って色々考えてみたんだけども、この部分についてはビシッとハマる解釈がどうも思い浮かばないのです。もしも翻訳者やその関係者の方がこの何の役にも立たないブログを目にして下さったなら、この箇所における翻訳の思惑を是非ご教示頂きたく存じ上げておりますのです。
 
最後。 
今日から一番
一番だ一番
(日本版)
 
文句なしに僕らがナンバーワンになる
きっと分かるよ!
時間の連続性の中で「今日」は何度でも更新される。現在と未来の素晴らしい「今日」を契機として、日本版では「今日から一番」の「今日」が表象する「現在」において、ラテンアメリカ版では"seremos"が表象する「未来」において、私達は「一番(=ナンバーワン)」になるのである。そして後者の世界では、それはぬ~べ~の活躍や成長によって実現される。
 
「きっと分かるよ!(¡Ya verás!)」は英語にすれば"you’ll see"という感じの表現で、「君もそのうち分かるよ」というような意味合いの言い回しである。
この「君」はもちろん「ぬ~べ~」なのであるが、こうした表現を含めてこれまでの歌詞をサマライズしてみると、「君は色々頑張らなきゃいけないんだけど、それによってスゴイ存在になるだろうし、そうすれば僕らも一緒に最高になれるんだ。君もきっとそのうち分かるよ」といった内容が示されていたワケであった。そしてこの「きっと分かるよ!」というフレーズの後には、自然とこのような言葉が浮かび上がって来るのではないだろうか。「だから頑張れぬ~べ~!」。
 
 
このようにラテンアメリカ版は、オリジナルの歌詞が持つ言葉自体のニュアンスを大きく崩す事なく、その行為や事象にまつわる主体を的確に方向づける事によって、主題歌を「キャラクターの応援歌」としての性質を有したアニソンに翻訳している。元々優れた楽曲の、歌詞翻訳によるアニソン的アダプテーション。ハッキリ言ってスゲーと思う。この翻訳者は、ラテンアメリカという地球の裏側からやって来たアニソン歌詞の使者・・・・・・なのかもしれない。